受難日のおはなしから

'また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。 あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。 ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。 'コロサイの信徒への手紙 1:18-23 新共同訳

本日(2020年4月10日)はイエス・キリストの受難の日です。イエスが十字架にはりつけになって殺された、悲惨な出来事の日なんです。よくイエスが「死んで三日目によみがえった」と言いますが、今の日本語の感覚ならば、死後二日経ってよみがえったとも言うでしょう。といいますのも、金曜日にイエスは十字架で殺されましたが、日曜日に復活したからです。

今日の聖書箇所では、「御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです」とあります。福音書では、イエスは死から起こされた、というような表現をします。死の眠りは起こされることの決してない、ゆすっても叩いても起きない眠りである。ところがイエスは死から起こされた。そして起き上がって歩き出した。そのことが、弟子たちにとって驚きであり、希望でした。コロサイの信徒の手紙では、それをもう一歩深めて理解しています。死から起こされて立ち上がることを、生まれると表現していますね。

イエスは死者の中から最初に生まれたと。最初ということは、後に続いて次々と生まれていく死者たちがいるということです。それがわたしたちです。キリスト教では復活を信じています。死んだら消えてなくなって、無になってお終い、ではないのです。イエスが死からもう一度生まれたように、わたしたちもイエスに続いて、死からもう一度生まれる。そのとき、聖書に何と書いてあるか。「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」と。イエスは敵意のただなかで十字架にはりつけられ、殺された。イエスの十字架の出来事は憎しみの象徴です。しかし死からもう一度生まれることで、イエスは自分を十字架につけた人々に復讐するのかというと、そうではない。その人たちと和解したんです。暴力の連鎖を断ち切った。

わたしたちは死んだらもう一度生まれる。そして、そのときには心からの和解があり、平和がある。それを信じています。なんだ、死んだ後の話なんか今されても────そうではありません。イエスの和解は、もうすでに起こっているというのが、聖書の言葉の趣旨です。もうすでに、心からの安心は実現している。なら、それをほんとうに目に見えて、身体で感じられる安心にしていこう。それが、目の前の人を大切にする、遠くの人のことを想う、その小さな行いとして、わたしたちがやっていくことなのです。

そんなのやっても無駄だと思わないで、やってみる。なぜなら、どうせ死んだら終わり、じゃないから。死んだ後も、あなたの、わたしのやったことは、意味あることとして続いていくから。わたしもあなたも、死にさえ消し去られることなく、さらに新しく生まれることができるから。今日の聖書の一言を、噛みしめましょう。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」。

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