スキャンダルで眼が曇る

'イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、 故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」 このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。'マタイによる福音書 13:53-58 新共同訳

わたしたちはイエス・キリストを知らない。顔を見たことがないから。だから、イエス・キリストがもしもこの世界に再臨して、あなたの目の前に今、現れたとしても、あなたはその人がイエスだと気づかないかもしれない────先週もしたお話です。先週のお話では、イエス自身が自分の再臨を、泥棒が家に侵入することに譬えていました。自分の正体を明かす泥棒はいない。だったらなおさら、イエスが目の前にいても分からない。

じゃあ、イエスを知っていたら大丈夫なのか。それが今日のお話です。イエスの顔をよく知っており、イエスの声を聴いただけでも「あ、イエスが来たな」と分かる。それくらいイエスと親しい知りあいだったら、イエス・キリストの真意が分かるのか。今日の聖書箇所は、その期待をも裏切っています。イエスを知っていたら知っていたで、「こんなやつが救い主なわけがないだろ」と。イエスの少年時代や青年時代、イエスの弟や妹たち、イエスの両親ぜんぶと知りあいであれば、イエスが急に福音を語り始めたときに「あいつなに偉そうなこと言ってんだ、ヨセフの息子のくせに」とか、「そういえばあいつ、子どものときから、ちょっと変わったやつだったよな」とか。「たしかに言うことは筋が通っているけど、それにしても神殿の祭司や律法学者でもないのに、なんの権威でそんなことを断言できるんだ」とか。けっきょくそういう反応になるだろう、ということです。

わたしたちはイエス・キリストの顔も声も知らない。わたしたちにはイエスの姿も見えない。だからもどかしい。さりとて、イエスと会って親しく交流したらしたで、あんまり身近な存在だったら「この人が救い主だって?馬鹿な!」と、そもそも信じる信じない以前の話です。ジレンマですね。でも、これが信仰の世界なんですね。今日の聖書箇所に「このように、人々はイエスにつまずいた」って書いてありますね。「つまずく」(σκανδαλίζω) はスキャンダル(scandal)の語源です。現代におきかえてみます。イエスが有名人だったとして、週刊誌の記者がイエスの地元へ取材に行った。出てくるわ出てくるわ、イエスの過去が。なんだ、なにがメシアだ。ただの人間じゃん。まあ、スキャンダルってやつですね。べつにキリストに限らない。あなたの身近な親しい人に対して、親しいからこそ「いやいや、あいつに限ってそんなことは」なんて決めつけてしまうことってないですか。他にも、芸能人のスキャンダル報道が、その芸能人の評価を決定づけてしまうことってありますよね。その人にも、ほんとうはいろんな、あなたやわたしの知らない、隠された側面があるはずなのに。

今日の聖書箇所にあります。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」。信仰(πίστις)という言葉には「信頼」という意味もあります。イエスの、神の子としての権威がまったく信頼されていない場所では、イエスは奇跡を行わない。もし行ったとしても同じことだからです。といいますのも、当時の古代社会では、イエス以外にも奇跡や呪術をする、シャーマンみたいな人はふつうにいました。だからイエスが不思議な癒しをしたとしても、「へえ!お前、いつの間にそんな魔術を使えるようになった?」とか。そりゃあ驚かれたり、尊敬を集めたりはするかもしれないけれど、それが神にまで結びつくことはなかったでしょうね。
イエスの奇跡に神の働きを観て信仰に至り、イエスの弟子となった人たちの多くは、イエスの生い立ちを知らない人たちだった。このことは一考に値しますね。

ですから福音書にしばしば言及される奇跡も、イエスを神から遣わされた救い主だと信頼する文脈があってこそです。その信頼がなければ、イエスは呪術師ではあっても、それ以上ではありませんでした。それはこんにち「宗教なんかあほらしい」と強く拒んでいる人に、どんなに論理的なキリスト教の話をしても、相手には最初から聞く気がないのと似ています。イエス・キリストを拒む人においては論証や論駁ではなく、イエスを、あるいはイエスを信じる人への信頼の扉が開かれる、そんな出会いが起こらなければ意味がない。

キリスト教徒一人一人が、今、この悲惨に満ちた世界で、それでもキリストを信頼して笑うことができる、そのことを生活のなかで示し続けること。より具体的には、傷ついた人、悲しむ人と共にいること。神の国は遠く離れたユートピアではなく、今ここへと沁みだしていることは、キリスト教徒が目の前の人にほんの少し優しくすること、強がらず弱さをも露わにすることをとおして示されるのです。それが、イエス・キリストが神であり、救い主であると信頼してもらえる、最もシンプルな道なんですね。お祈りします。

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