こころやさしき悪役

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 ルカによる福音書 15:1-2 新共同訳

福音書を読んでいると、しばしばイエスの論敵として律法学者やファリサイ派の人々が登場する。さらっと読んでいると、イエスが正義の味方で、ファリサイ派や律法学者たちはイエスを十字架へと追い詰める、暗くて嫉妬深い悪役に見える。

だがファリサイ派の人々というのは、祭司のような儀式を執行する立場にはないが、のちに「旧約聖書」とキリスト教徒が呼ぶようになる一連の書物を編纂するほどに信仰的伝統に長けた人々であった。「律法学者」という言葉で専門家であったことが示唆されているし、「ファリサイ派の人々」ということで、律法学者の指導をあおぐ一般民衆も含まれていただろう。彼らの願いは何であったかといえば、古来の信仰的実践を守り抜き、かつ、それを日常生活に適用してゆくことであった。ローマ帝国の支配下にあって、このままでは信仰が消えうせるという危機感が彼らにはあったのだ。たとえばこんにちのアフガニスタンにおいて、西欧諸国に抵抗して信仰的自治を主張するタリバンに通じるものがある。

わたしたちはキリスト教が成立してずいぶん時が経った時代に生きている。だから聖書に登場する人物として、イエスはいわば正義の人、それに対してファリサイ派の人々や律法学者たちは狡猾で差別主義的な悪人、というイメージを持ちやすい。だが彼らはおそらくふつうの人々、いや、感嘆するほど信仰熱心で、信仰的愛に基づいて他人をもてなし、助けることに人一倍自覚的な人々でさえあったと思われるのである。というのも、そうでなければ人々から支持されるはずがなく、また、後代にユダヤ教を大成させるこどなど不可能だったであろうからである。秘密結社ならいざ知らず、人々を宗教的戒律で締め付けるだけの邪悪で陰湿な集団が、歴史の荒波のなかで当の人々から支持され生き残っていくことは、単純に考えて不可能である。

彼らはおおむね善良な人々であった。だからこそ人々から尊敬もされ、支持された。彼らは聖典の研究に熱心であり、それを日常生活に実践できるよう人々に教え、人々も実際にそれを行った。当時の信仰は個人が自分独りで信じるものではない。彼らは困っている人を助け、歓待した。そういう彼らがイエスに対して「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言ったのだ。その重さを味わわなければならない。

ここから先は

1,437字
この記事のみ ¥ 300

記事に共感していただけたら、献金をよろしくお願い申し上げます。教会に来る相談者の方への応対など、活動に用いさせていただきます。