夢の構造

高校の頃の友人たちの狂騒…仲間の誰と誰が付き合ってるとか、付き合いそうだとか、そんな大騒ぎをしているのをどこか遠くで見ながら、私は、あぁ、いいな、あんな普通の学校生活を送りたかったな、と思っている。その友人たちのなかには娘もいる。アーケード街で私は娘たちの一団と擦れ違う。学校をさぼってこんなところで何をしているのやら。一団の中の制服姿の娘は、恥ずかしがって後ろを向いて、私に顔がばれないようにしているのだが、端からバレバレである。


娘は実際はこの夢のような普通の高校生活は送ることができなかった。たぶん私は本来の娘の立場に立って夢を見ている。あぁ、普通に学校に行きたかったな…という現実の娘の心情と夢の中で同化している。

そして、本来は、父親として、あぁ娘にあんな普通の高校生活を送らせたかったな、と思っているのだが、夢では、私が、普通の高校生活を送れていない高校生になっている。と思いきや父親の視線に切り替わったりする。

夢では、もとの現実や心情が様々な変換を受けているのがわかる。

この変換はどこに由来するか。

おそらくそれは、前日に書きつけた俳句(のようなもの)に由来している。

散歩道
娘に花の名
教わりぬ

この俳句(のようなもの)では娘の年齢は読む人の自由な想像力に任されている。しかし、私が書きつけた時は、普通に学校生活を送り、普通に成人した娘と老いつつある父親、といったごく一般的なイメージを欺瞞的に仮託してしまっている。娘と前日に散歩をしたのも本当のことだし、花の名前を教えてもらったのも事実だが、そんな実際にあったことを作品化するときに、一般的な物語へと虚構化してしまっている。俳句的抒情への類型化に逆らうことなく、娘の不登校や精神疾患といった背景を見えなくし、現実を少し捻じ曲げてしまっているような感じがつきまとう。

この一般的な物語への虚構化が、夢においても反復したのである。すなわち、夢の中で娘は普通の高校生活を送って友人間で、恋愛話に興じている。学校をサボってアーケード街で友達とたむろし、親にバレそうになって顔を隠そうとする…そんなありふれた学校生活を送っている。そこには本来の娘の生い立ちとは乖離した類型化した健全な青春がある。この類型化、一般的な物語への虚構化が、この夢を成立させている構造である。その構造は、前日に書きつけた俳句(のようなもの)における類型化、虚構化の構造が反復したものである。

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