聖杯探求としての夢

著名人のA子さんの部屋が私が外へ出るための通り道になっている。ごめんね、いきなり入ってと言ってぼくは部屋を通り抜けようとする。するとA子さんが、ある絵本がなくなったと言って困っている。その絵本なら昨日学習机の棚の隅で見かけたよ、と私は答える。緑色の表紙の絵本だ。A子さんはその学習机をひとりで出口側に移動させようとしている。部屋を抜けて私は自転車に乗ってどこかへ出かけていく。スポーツウェア姿の男がジョギングしながら付いてくる。そこは河川工事をしているらしい広々とした町の一角だ。真新しい敷かれたばかりの砂利。ジョギング男がS書店はは近くですかね、と尋いてくる。いや、それは遠いでしょう、とぼくは答える。しかし、よく考えると近くまで来ているのかもしれない。遠いのか近いのかよくわからない。近くに森があるが、その森を真っ直ぐに突き抜ければ意外と近いのか。わたしは森を迂回することばかり考えているので遠く感じるのかもしれない。私は自転車をUターンさせて移動しようとするが、うまくUターンできず、そばを歩いていたおばさんにスタンドの一部を当ててしまう。おばさんは痛い、と言い、私は、あっ、すいません、と頭を下げる。

混沌とした夢の形象群をなんとかストーリーライン上に配置してそれらしい物語構成にしてみたが、実際はこれら夢の形象群は前後関係は甚だ曖昧で、実のところ実際の夢の中では空間的に配置されていたに過ぎないように思える。同じ地平上の、近くや遠くに同時的に存在している形象群を、ではなぜ覚醒した意識は時系列を追うようにして物語化できるのだろうか。

それは、神話的物語的〈継起構造〉が個我の本質だから、というほかないように思える。無意識下では常に、人はこの〈継起構造〉としての聖杯探求譚を生きている。混沌と闇の世界から祝福された栄光の国土を回復する聖杯探求譚を。あらゆる日常の出来事は、各々の固有な無意識世界の中で、そんな聖杯探求譚の物語要素の各項に代入される。夢の世界に持ち込まれるやその聖杯探求譚の時間性は空間的表現を得る。覚醒した意識によって想起された時、夢は再び時間性を取り戻し、聖杯探求的な〈継起構造〉をもって把握される。たとえ意味不明だとしても、人は形象と形象を結びつけ、起伏を明確にし、夢を物語化してしまう。物語は、その本質として、常に聖杯のあるところを目指す。

では、今回の夢の中で、ストーリーを駆動する聖杯はどこにあるのか。言い換えるなら、聖杯探求譚の公式にある〈聖杯〉という項に代入されているのは夢の中のどの形象、あるいはどの概念なのか。それはこの夢の冒頭で〈試練〉という物語項に何が代入されたかを見ればわかる。

著名人のA子さんの記事を見たのは、前日のネットニュースが何かでだった。その記事では、A子さんは何に興味を持って、今何を勉強しているのか、が取り上げられていた。娘と同世代のA子さんの記事を見て、私が知らぬ間に娘とA子さんを重ね合わせ、同一視していたとしても不思議ではない。A子さんとなって夢に現れた娘は、困難な状況にある。探している絵本が見つからないでいるのだ。しかも、机をあちこちに移動しようとしている。この行動は、普段の娘の様子を知っているなら、調子が落ちた時の兆候である、とわかるものだ。調子が落ちた時、娘は部屋の中を空っぽにしようとしたり、机や本棚を意味もなくあちこちに移動しようとしたりする。買ったばかりの服も廊下に積み上げ、どれほど気に入っていた本でもすべてブックオフに持って行こうとする。

言ってみれば、このA子さんとして現れた娘は、聖杯探求譚あるいは神話物語における闇や混沌、荒廃や病といった物語項に代入されている夢形象だ。そしてここで、A子さんとなった娘は、絵本を失くし探している。わたしは、〈試練〉を与えられたのだ。A子さんとなった娘が失くした絵本という〈聖杯〉を探し出す、という〈試練〉を。

そのA子さんとなっている娘の部屋が通り道になっているということ、これは単なる偶然などではなく、闇や混沌、荒廃や病の物語項をイニシエーション的に体験しなければ外に出ることができない、すなわち先に進むことができない、ということなのだ。それは、〈試練〉を潜り抜けるために必ず通過しなければならない物語への入り口の暗喩である。

物語への入り口を経て私は戸外に出る。それは聖杯のある場所を目指す旅に出るということである。物語への入り口を抜けるという通過儀礼によってまず私は〈聖杯〉を目指す旅に出る資格を得たのだ。A子さんとなった娘が失くした緑色の表紙の絵本が〈聖杯〉であるとするなら目指す場所は明らかだ。それはS書店である。S書店にこそ〈聖杯〉はある。それを手に入れ、戻ってくることはA子さんとなった娘の病を癒すことである…

日本にも世界にも、病気となった母親や父親を治すために山や森の奥にあるというに珍しい伝説の木の実を取りに子どもたちが旅に出るという民話が伝わっている。その木の実を食べればどんな病気でもあっという間に治ってしまう。しかし、その山や森は、見たこともない魔物に守られており、誰も近づくことができない…聖杯探究譚として夢を把握しようとする時、それはこのような民話の数々を彷彿とさせる。夢は多くが、日常的に繰り返される問題と解決の道行きの類比的構造反復であるため、必然的に、試練と回復の道行きである聖杯探究譚に近づいていく。

私は自転車を漕いで堤防工事でもしているらしい町に出る。根っからのインドア派でスポーツウェア姿の健康そうなジョガーなどとは生涯を通して親しくなることはないだろうと思っているが、どういうわけかこの夢では、そんな健康そのものの若いジョガーが私に併走し、S書店の場所を尋ねる。

この場面で思い出すのは、かつて違う夢で見た似たような場面のことだ。その夢では、自転車で帰途についている自分に、どこ辺りからか、鳶職らしい三人の若者がピタリと並走しているのに気づいた。彼らの風貌からして、自分とは住む世界が違う人達だなあ、なんでついてくるのかなあと、思っていたが、ある橋に差し掛かったところで、彼らが橋の補修工事を始めたのだ。いつのまにか自分もそれを手伝っている。そのうち自分と彼ら三人の若者との間に連帯感のような、絆のようなものを感じ始めた。自分とは縁遠いと思われていた若者らと同じ作業に精を出し、連帯の感情を感じるようになる…かけ離れたものを結びつける橋の補修という形象によって暗示されていたのは、かけ離れた私と彼らを結びつけるこの連帯の感覚だったと言える。

今回の夢においてもこれと同じ主題が繰り返されている。縁遠いはずの若いジョガーが、私にとって大切な聖地である書店の位置を示唆するということ、自分とはかけ離れた世界の住人と聖地への道行きを共にしている、という感覚。ここでは、縁遠さ、親しみのなさが聖杯という媒介項によって近さ、親しさへと転換している。聖杯はバラバラだった世界を再び結びつける…言わば、ここでは、この若いジョガーは、共に聖杯城を目指す円卓の騎士の一人なのではないだろうか。あるいはユングのいう影に相当するようにも思える。

しかし、私には、その書店という聖杯城の場所がまだ定かにはわからない。近くまで来ているかもしれないし、まだ遠いかもしれない。森を一気に突き抜ければ、すぐなのかもしれない、と思っている。そして、森という冥界へ下る旅へ向かおうとして、自転車をUターンさせたところ、知らないおばさんに自転車の一部を当ててしまう。

イメージはひどくありふれていて世俗的でなんの面白味もないように感じる。しかし、聖杯探求譚の〈継起構造〉の展開としてみるならば、このつまらないおばさんの場面も神話的世界に転生を遂げる。

重要なのは、私が乗っている自転車の形象である。以前、私はいたるところ工事中の街が舞台の夢を何度も見たことがある。それら一連の夢の中で、心身相関の不調の象徴として、あるいは身体的無意識の投影像として、古めかしく廃墟的な街の景観が様々に立ち現れるのを見た。それらの景観は、再構築されつつある都市の像としては調和を欠いていて、あるべきではない瑕疵のような印象を与えた。観念や意思は、先走りして、街を造り変え、新しい社会を構築しようと突貫工事を進めている。しかし、どうしてもその速度についていけない古い建物や壁が残ってしまう。ある夢では、夢は古い駅舎をハリボテでごまかし、新しい駅舎に見せかけようとさえしていた。身体的無意識としての街の古層をどうすべきなのか、観念や意思には分かっていないようだった。

しばらくしたある日の夢では、それら街の中の瑕疵的景観は、自分の死体という形象へと転換した。街の古層という外部環境へと投影されるしかなかった身体的無意識は、心身相関の度合いの上昇によって、死体とはいえ自己へと取り戻された。私の魂が取り付いたその死体は部屋の中をうろつきまわっていた。

しばらく経った次の夢では、死体は、古めかしいデザインの愛車の形象に変容した。死体よりは多少居心地がいい魂の乗り物、である。しかし、その夢でもまだ、私はその愛車をうまく乗りこなすことができないでいた。座席が窮屈で、うまくステアリングをコントロールできないのだった。

今回の夢における自転車は、このかつての夢における古い愛車の後継形象なのである。かつての愛車よりもさらに小回りがきいて、乗り手、つまり、精神あるいは心あるいは魂とほどよく調和しているように感じられる。しかし、その調和はまだ十分ではなかった。心身相関の調和的感覚の欠損が残存していて、あの、自転車がおばさんとぶつかるシーンとなって喚起された。喪われた心身の靭帯はいまだ十全に回復されていない。この触知が、夢という世界で、自転車がおばさんにぶつかるという日常的なイメージへと変換されたわけである。

このため夢はここで途絶え、聖杯探求の旅は、頓挫する形となった。聖杯城へと入るためには、心身の靭帯が十全に回復していることが条件なのだろう。

しかし、この夢はいつか形を変えて、次の夢へと継承されるだろう。時を経てさらに夢は継起するだろう。

おそらくその未来の夢では、街の工事を終わらせ、丈夫な堤防を築き、人々を呼び戻して祝砲を鳴らすために、聖杯にあたる何かの形象を追い求め、ついには、聖杯城の門をこじ開けることになるだろう。

その聖杯の文字式にどんな具体的な形象が代入されることになるのかはわからない。きっとそれはひどくありふれた、日常よくみる光景や記憶だったりするだろう。

聖杯探求の旅は、何度も途絶え頓挫しながら、形を変えて何度でも繰り返される。それが〈継起構造〉としての個我の宿命なのである。

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