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夢の体系

〈嵐の日に〉

夢の中、車を運転していた。台風がすぐそこまできていて、凄まじい風が吹いていた。わがスバルのスペックは情けないばかりで、ターボもついてないし、馬力もトルクもやわなもので、台風の風に押し戻されんばかりだった。フォグランプを点け、マニュアルモードに切り替えた。後の座席に二人、家族が乗っていた。子どもたちだろうか…やがて風をつかまえた帆船のように車はスイスイと前進するようになった。帰りはたいへんだな、逆風だぞ、とわたしは言った。



〈狼の夢〉

幾重にも重なる岩と岩のわずかな隙間を雪混じりの風が吹き抜ける度に甲高い笛の音のような音が響いた。斜面の岩場の陰で荒い息をしながら身を横たえる狼が、その度に首を持ち上げ耳をそばだてる。薄闇の中、全身を覆う灰色の毛は至るところ赤い血が滲んでいた。頭上を覆う岩の庇は風と雪とを遮るに足らず、時折渾身の力を込めて山中にこだまさせる遠吠えには応える者とてない。この傷はどこからくるか。

狼はただ毎日生きるためにひたすら獲物を追いかけ、山野を走り回っているだけだ。生きるために必要なことをひたすら為す。そうする他に狼に何ができたろう。だが陽が沈み、我に返るとどういうわけか全身を細かな傷が覆い、至る所血が滲んでいることに気づく。そして、絶えざる痛みが夜じゅう狼を苛む。岩場の陰で、彼はひたすら痛みに耐えて眠る。時に狼は何者かに追われている夢をみる。そして、その敵に向かって牙を剥き、唸り声を上げている自らの声で目を覚ます。暗闇の中、狼は夢の続きでも見ているかのように周囲に耳を澄ます。岩場を吹き抜けていく風の音以外、何も聞こえることはない…日が昇るとともに痛みは消え、傷は癒えている。彼は、またいつものように獲物を求めて山野を駆け巡る。本能は彼を朝ごとに立ち上がらせ、生きることを強いる。そしてまた山の向こうに陽が沈む頃、彼は知らぬ間に体じゅうに傷を負っていることに気づく。昼の間、何者も彼に触れたり、爪を立てたりはしなかった。というのもこの山野には仲間を見かけることはなく、ましてや敵などどこにもいない。彼はただ小動物の幻を追って山野を駆け巡っただけだ。ただただひたむきに生きようとしているだけだ。夕暮れの雪混じりの風が全身を貫き、狼は冷たい痛みに耐えながら眠りを貪る。狼が横たわる岩場は硬く凍っている。この傷はどこからくるか…



〈一隅の黙示録〉

終末の爆発音はすぐ身近に迫っていた
それはまだまだ遠い出来事だと思っていたのだが
生家裏の畑のすぐそばで爆発が起こり
一帯は崩壊した
爆発の破片や
火山灰のような真っ白な塵埃がもう隣の畑を覆っている

終末の夢は何ゆえいつも
生家が舞台になるのか



〈被告〉 

夢の中の大きな通りはひどく渋滞していた
わたしは他人の自転車に乗って歩道を走る
なぜ他人の自転車に乗っているのだろう
しかも見も知らぬ他人の自転車に
自分にはそぐわない小さなママチャリだ
身に覚えがない
確かさっきまでクルマに乗っていたような気がする
いつ自転車に乗り換えたのだろう
東京都文京区不忍通り
なにがこの場所を
わが夢に引き寄せたのだろう
何ががこの場所を
この日我が夢に引き寄せたのだ
その通りに付着したいつかの記憶と
その記憶を満たす罪の感覚が

少し先で警官が交通整理をしている
もし見咎められて
防犯ナンバーを調べられたらどうなるだろう
不安が兆す
わたしは無実の罪で取り調べられるだろう
わたしはヨーゼフ・Kのように
あれこれと身に覚えのない罪について言い訳を並べたてるだろう
そして見ることもできない法廷で
果てのない消耗戦を強いられるだろう
わたしは疲れ
本来やるべきいつもの仕事すら
手につかないだろう
いつ終わるとも知れない
不毛な裁判に一日の大半の時間を
奪われるだろう



〈夢の体系〉

廃材置き場が氷雨に打たれていた。近くの藪の中には、けばけばしい不夜城が場違いなイルミネーションを焚いていた。そして子どもらはとうに消え、
花ばかりが廃校の庭に取り残されていた。しかし夢の中でわたしは通学路の子どもたちを見守るボランティアをかってでたのだった。

わたしは学校近くの小さな〈橋〉のたもとある〈死人が相次ぐ旧家〉に待機していた。〈廃校の男子児童〉が一人学校の方からやってきた。わたしは〈廃校の男子児童〉からは見えない〈死人が相次ぐ旧家〉の物陰でおいてけ堀のような妖怪のふりをし、「どっちがいいか」と声をかけた。すると〈廃校の男子児童〉はビクッとして「聞こえない、聞こえない!」と自分に言い聞かせるように言った。わたしはもう一度「どっちがいいか」とおどろおどろしい声でいった。男の子は「聞こえない、なんにも聞こえない!」と目を瞑って逃げるように、〈独居老人の家〉に駆け込んでいった。小さな〈橋〉を挟んで〈独居老人の家〉と〈死人が相次ぐ旧家〉は向かい合っているのだった。

わたしの一日の仕事はそれで終わりだった。



〈雪解水〉

この街は今堤防工事に忙しい
低く脆弱な堤防の
幅のある河は凍っていた
ところどころ氷がバリンと割れて
水の流れが生じると
痛みが稲妻のように走った

安易にも
この街は河の氾濫を恐れるあまり
かつて大河の流れを凍らせたのである
それが街を守ることだと信じたらしい

幾人もの街の人たちがバス停で
長い長い間バスを待っている
時折かすかに市の賑わいが
風にのって聞こえてくる
すると溶けていく氷の硬さを受け継ぐように
少しずつ堤防は高く強固になる
そして硬い文化の橋が架けられる
橋と堤防の進捗に比例して
少しずつ水の流れは戻っていく
凍結の凝集力が
額の統括力へと変換する

この街は今堤防工事に忙しい



〈夢の欠片〉

大きな館の近くにあるらしい森
というより藪のなかで
大きな犬が慣れた様子で
親しげに駆け寄ってくる
不思議に恐怖感はない
わたしは思い切り頭を撫でてやる
犬はゴロンと仰向けになって腹を出し
喜びを表現している
枯葉の積もった足元
薄明の中の黒い木々
藪の息苦しさ

このひとこまの前後にもたくさんの夢が見られた気がするが
どれも砂のように手のひらからこぼれ落ちてしまった
夢の傀儡子の意図を追うに素材が足らず
また忘れて捨てるに惜しく
宙ぶらりんのまま
わたしはただそれらの形象を書き留めておく
画鋲で壁に留め置かれたメモのように

今やわたしは夢の傀儡子の仕事を
完全に信頼している
その仕事は完璧であり
正確無比である
イメージの乱反射の背後に
明確な意味の秩序が隠れているのを
わたしは知っている
だから今はただ書き留めておく
画鋲で壁に留め置かれたメモのように



〈絵本〉

ソラリスの海のように
夢の傀儡子は
まだ幼い頃の娘をわが夢に送ってよこす
娘はある絵本が読みたいと言う
伝説の秘薬をめざして山に入る勇者となって
わたしは書店をめざす
しかし改装中の児童書棚には絵本が一冊もなかった
なぜか代わりに新酒の試飲会が開かれている
一杯ふるまわれ
いい気持ちになって
わたしは暗い道を家に向かう
絵本はなかったな…
そう思うと家路は一層暗くなり
絵本が一冊もない棚のように
がらんどうになっていった



〈影と橋〉

その夢では雨の中
三人の寡黙な鳶職人たちが橋の修理を始めた
彼らはわが影
わが過去
置き去りにされた三つの暗い街だ
わたしは彼らと共にやはり橋を修理する
するとわたしたちの間に絆が生まれるのを感じる
橋を修理することで
私たちの間に橋が架かった
雨の中
わたしはわたしの影と和睦する

橋は対称をなしていた
美しき対称は此岸と彼岸を結ぶ
そして昼と夜を
覚醒と眠りを
現実と夢を
そして分極と相同の
影と光を

バランスの悪い橋は
落ちる
対称性に欠け
此岸と彼岸は分断される
すると時は梗塞し
虚無が淀むとともに
強迫性の虹がかかる



〈双身〉

チェックアウトのために向かったロビーは大きな窓から
白い陽が差し込んでいた
ロビーは清潔で整えられ
他にだれもいない
こんなに朝早くホテルを出るとなると
この先まだいくつもの観光地をまわらなければならないということか
わたしは少しうんざりしている
わたしはフロントで
後から来る友人宛に薬を手渡して欲しいと頼む
しかしフロントで渡された書類には
自分の名前を書く欄しかない
友人の名前はどこに書けばいいのか
受付の薬剤師の中年女性は苛立って
何かを言っている
薬の引き継ぎがうまくいかない
その書類には薬を受け取る本人の名前を書いておけばいいだろう
要は彼が薬を受け取れればいいのだから

大きな窓からは
強迫性の太陽の陽が差し込み
白く疲労している
大地から切り離されている
ロビーは
時が止まったように
清潔で整えられ
榎の巨木の根のように深く張り巡らされた
氷の体系に浸潤されている

強迫性の白い陽と氷の根が
似ていない双子のように
夢の体系の中で照応し合っている



〈輪廻〉

空が暗くなってきた
北の方から遠雷が聞こえ
少しずつ風が強くなっていく

いかなる知性が
またいかなるる意志が
その無名者の人生の昏い大洋期に
このような罠を仕掛けたのだろうか
豊饒を約束する河を凍らせ
橋という橋を壊し
強迫性の太陽と
終わりなき氷の体系をその国の標章とし
必ずや不幸を反復する神話を
星々の配置に刻み込んだ
そのような陥穽を
いまだ胎動も知ぬその者の
身体に刻み込むとは
その者のいかなる罪によるというのか

夢は悪夢を宿命づけられ
悪夢は正夢となるを宿命づけられた
それはいかなる因果の巡り合わせ
またいかなる理由の
罰であるというのか

すぐに空は終末の暗さとなり
血が混じる雹が降るだろう
ラッパの音がなり
火の風が吹くだろう

彼の生涯は
その因果の連鎖を
視るためにある



〈夢の狼〉

狼はある午後、人里に降りた時、かつてある農家の庭で見かけた人間の子どものことを思い出した。陽が豊かに降り注ぎ、村の至る所で木洩れ陽が静かに揺れ、羽虫が生垣の上で飛び回っていた。川の水は静かに流れ、村は午睡のうちにあった。たくさんの鶏が籾殻をついばみながら庭々を歩きまわっていた。狼は一軒の農家の庭の鶏の群れそっと近づいていった。そして一羽の鶏に狙いをつけた。その時、庭木の陰に人間の男の子が棒立ちになっていることに気づいたのだ。狼は慌てて後ずさり、警戒の唸り声をあげた。そのあと狼は不可解な光景を目にした。手拭いを被った年のいった女が箒を持って家の中から出てきたかと思うとその箒を振り上げこちらに向かって走ってきた。狼が後ずさり唸り声を大きくする。しかし、どうしたわけかその人間の女は狼にではなく男の子に箒を振り下ろしたのだ。狼には全く気づいていないようだった。男の子が頭を抱えてしゃがみこんだ時、狼は本能的に鶏の群れへと突進した。土埃をあげて騒々しく逃げ惑う一羽の細い首ににかぶりつく。そしてすぐに庭を出ると、獲物を咥えたまま山道へと続く村の畑の中を全力で走り抜けた。

山の奥深くで仕留めた獲物の内臓を食いちぎっている時、狼は身に覚えのない痛みを背中に感じた。そして、あの、庭木の陰て棒立ちになっていた男の子の表情に乏しい顔を、そして暗い穴のような眼を思い出した。水飲み場にしている近くの沢に行くと、信じられないことに沢の水が涸れていた。いったい山に何が起こったというのだろう…あの時からではなかったろうか。知らぬ間に体じゅうに傷を負い、夜毎に痛みにうなされるようになったのは…



〈侵襲者と大勢の人たち〉

夢の中の侵襲者は屈強だった。これまでこれほど明確な、なまなましい侵襲者の強さを感じたことはない。それは神出鬼没でどこから襲ってくるかわからない。しかし、これまでと違い、彼ははっきりとした姿形を与えられていた。そしてわたしはこの夢で一人ではなかった。街の人たちと一緒に戦っているのだ。まるで革命でも起こさんばかりに、武器を持った大勢の群衆が道一杯に広がって、街の中心部へ向かう。とうとう捕まえた!と誰かが叫んだ。そしてリアカーに乗せてその侵襲者を連れてくるが、それは侵襲者本人ではない。ひ弱なただの身代わり、影武者のようなものだった。わたしは、雑貨屋の狭い通路で、あるいは工場の暗い地下室のようなところで、いつどこから侵襲者が現れるか、街の仲間たち幾人かと待ち構え、そして怯え恐れている。彼は屈強であり、無敵であるように見える。とても敵いはしないだろう…

〈溶解期〉

夢に内臓が飛び散り
血みどろの闘争が
繰り広げられる
頭を無くした男が草っ原に座って
無くした頭を探している
血みどろの首の切断面がはっきりと見えた
傍に青大将の群れ


誤用された力がここに凍っている
凍った鎧に使われた凍結力は
待つことの
文化の構造に変換されなければならないだろう
それは誤って用いられた
堤防と橋を硬化させるべき力だ
場所と時期を誤り
性急にまた
とんちんかんな場所で作用し
柔らかな皮膚を
氷の鎧に変えてしまった
早急に
堤防と橋の強化に
その力は転用されるべきである
そして柔らかな胎児の皮膚を
呼び戻さねばならぬ

黙示録のように
夢に内臓が飛び散り
血みどろの闘争が
繰り広げられるが必定と
わかっていはいるが
そして頭を無くした男が草っ原に座って
無くした頭を探しまわり
蛇の群れが藪から這い出すに違いないと知ってはいるが



〈迷夢〉

どこかの観光地でわたしは、駅へ戻ろうとして歩いているのだが、山か丘の頂にある遊園地まできてしまった。わたしは、再度駅への道を辿るが、ぐるっとひとまわりしてまたもや遊園地にやってきた。大勢の観光客がいる。たくさんの人たち。雑踏あるいは群衆。遊園地の賑わい。夜になってしまった。みな駅へ行くと言う。安心するが、道がわからないので、駅ってどこですか、とわたしは誰かに聞いた。すると地元の人らしき年配の男性が、もうすぐそこだよ、その坂登って行きなよ。でも下りはカートに乗らないとダメだよ、と言う。たしかに坂を登り切ったむこうに煉瓦造りの豪勢な駅舎があるのが仄見えた。わたしは細い坂を登っていくが、高所が恐ろしくなってきた。父子らしき二人連れが軽々と坂を自転車で登っていく。彼らはなんで平気なんだろう?やがて空飛ぶ円盤のような不安定なカートに乗ることになった。

気がつくとK駅らしき駅のホームにいた。一つ駅を乗り越してしまったのだ。上り電車で一つ前の駅まで戻らなければ。ホームから線路の方に顔を出して嘔吐している若者がいる。危ないぞ!と思うが、わたしはやり過ごしてホームの中央あたりに行く。ホームは混み合っている。たくさんの人たち。電車が入ってきた。扉が開くと大勢の人たちが乗り込んで、車内はあっという間に満杯になった。たくさんの人たち。



〈秋の陽の下〉

同じ皮膚が傷ついては癒え
癒えてはまた破れ
ついにその皮膚は分厚く硬く盛り上がってしまった
秋の陽の下
その哀しい少女を夢に抱いた時
そんな硬さが手に伝わった
それは魂の皮膚なのか
体の皮膚なのか
区別はつかなかった



(白い陽)

よく晴れた冬の一日だった。この時間も人の往来はまばらで、歩道もない狭い通りをトラックや軽商用車ばかりが猛スピードで駆け抜けていった。半世紀も前に建てられた木造アパートの生垣を過ぎると、製本会社の前では黄色いリフトが佇み、現在は稼働していないらしい、シャッターが降りっぱなしの小規模な物流倉庫の車寄せでは野良猫が数匹たむろしていた。敷地の隅では黒ずみ朽ちかけた木製パレットが積み上げられ、格好の野良猫の遊び場になっているようだった。その先へ行くには歩行者は、車とすれ違う度に排ガスで黒ずんだブロック塀に体を擦り付けるようにして歩を進めなければならなず、落ち着かないことこの上ないのだった。一方通行の入り口にあるのは、「皇帝」という奇妙な手書き看板を掲げている、リサイクル工場とは名ばかりの鉄屑の集積所だ。オーナーのずんぐりとした小太りの、まだ三十そこそこの男が仲間とともに毎日、どこかから集めてきた金属ゴミを素材ごとに分別してどこかに運び出している。工事現場にあるような白い仮設塀パネルをどこかから持ち込んで乱杭歯のように無造作に並べ立てて敷地を囲い、入り口は青い養生シートで覆っていた。その上に赤いペンキで書かれた「皇帝」の看板…知らない人が通りかかって、その場違いな看板を見たら目を丸くして驚くだろう。そのリサイクル工場の青い養生シートが、いつも静かにゆらゆらと揺れていた。その向かい側の木造モルタルアパートの壁には蔓草が這い回り、色の剥げ落ちた物干し竿に、とっくに乾いてカチカチになったボロ雑巾のようなタオルが忘れられたように巻きついていた。曇りガラスの向こう側にどんな暮らしがあるのかは見当もつかなかった。玄関先に置かれた木箱やポリバケツにアロエやゴムの木、カネノナルキなどの観葉植物が植えられているが、生命感に乏しく、まるで手入れを忘れられ埃をかぶった蔵の中の置物のようだった。陽射しはどこまでも白く無味で、アスファルトやひび割れたアパートの白壁に静かに降り注いでいた。この倉庫街を取り囲む国道や高速道路を流れる車や、高架を走り抜ける黄色い電車の軋み音ばかりが途絶えることなく空にこだましていた。この道の先を見ようとする目には、ただただ渇いた無音の陽射しと、風が揺らす空き地の枯れ草以外何も見えないのだった。



〈泥棒夫婦と戒厳令〉

失業したらしい
場所は定かではないが
ある建物の中で
雑踏が通り過ぎるのを待つ
やがて静かになった通りに出ると
一人の中年女がいて
何かを物色しながら歩き回っていた

ここはまた別の場所だ
目の前にあるのはダンボールハウスあるいは
雨風を凌ぐだけのバラック小屋のようだった
失業者に寂寥の波が絶え間なく押し寄せた
自分はここまで落ちぶれたのだ
その寂寥の波はたえずそう言っていた
そういえば確かこの場所には
昭和の雰囲気を残した散髪屋があったはずたが…
ここでも例の女が歩き回りながら
人の荷物の中を物色していた
そしてそこにあった荷物を丸ごと持って行ってしまった
悪びれた様子もなく
からからっと絶えず笑っているような女だった
戦後の闇市で逞しく生き残ってきた…
そんな言葉が思い浮かんだ

やがて街に戒厳令が敷かれた
夜の戸の隙間から
女の亭主が外を窺う
すると軍服姿の青年将校たちが
街灯の下で敬礼を交わしあっているのが見えた
坂の町の
石垣の道
亭主は、くそっ!と罵り声をあげて
戸を閉めた
この泥棒夫婦のせいで
街に戒厳令が敷かれたのだろうか
私たちはもう外に出られないのか

いつのまにか生家の庭にいる
祖母が表門から入ってきた
貧しい田舎の冬ざれの風景のなか
庭の一角に菜園があり
作物が育っているのが見えた



〈堤防〉

草の繁った堤防の上をいつものようにわたしは歩いた
どうしても収拾できない水が溢れ
氾濫するのを止めることができない
水は街を呑み込み
流れを止めて淀む
鯨と深海の甲殻類が街を侵襲する
それはわたしの街の時間を乱してしまう
いったいこの暗い水をどうすればいいのだろうか
わたしは堤防の上で冷静にその水を観察する
無論のこと
堤防工事に余念がないとしても
いったいその流れの
強迫と氾濫をどうすればいいというのか

ひとつ確かなのは、
わたしがもはや水に呑み込まれり
鯨や深海の甲殻類から逃げ惑うということがないということだ
冷静にその水を観察できているということだ
わたしは穏やかに
雑草の繁った堤防の上を歩いていた



〈水の街区〉

空は夕暮れの白色で
あまりにも心地よく
ところどころ刷毛で掃いたような赤い雲が漂っていた
夢の街区に不快の海が注ぐとしても
往きかう人々の
遠隔化された時間の構造が
つかのま交換され
つかのま反復され
内容も目的もそれぞれの
形式的な祝祭が立ち昇るようであった

結晶化する橋
高く凝固する堤防

像は鮮明であり
概念は明確である
硬化した筋肉も凍傷の内臓も
わたしの意識を混濁させはしない
また不快の海に溺れ
眠りに沈み込むこともない
焦燥がわたしの足を掬うこともない
わたしは眼差しを保ち
不快の海を泳ぎ
橋の上で
持続を保つ

すると長いスカートの裾を不快の海に浸けながら
髪の長いその人が本を読みつつ横切っていく
静かな水の街区を



〈概念夢〉

群衆。乗換駅での人の群れ。暗い駅。私は乗り継ぎのために階段を、その暗い階段を昇っている。人の足を踏んだかもしれない。時間には余裕をもって乗り換えるはずだったが、何やら慌ただしい。暗い駅舎の天井には、賛美歌のように、前日に読んだ書物のなかの一節が反響していた。

〈…示差的特質の対立は、論理学が示すような真の二元的対立であって、これらの対立のおのおのについて特徴的なのは、項の一つが必然的にその対立項を含意するということである…〉(※)

この言葉の余韻を早く次に繋げ生かさなければけない…早く繋げなければ…この思考と高揚を…次に繋げなければ…焦燥が吹いた。わたしは乗り〈継ぎ〉をすることになった。混み合った車両にとび乗るとすぐに発車ということになった。讃美歌のように書物の一節が鳴り響く。その音色に暗い駅舎が高揚する。するとそれは雑踏の流れになってざわめいた。辻々の百鬼夜行のように。あるいは草原と丘の古層の妖精たちの遊行のように。でなければ、萌え出る緑の原形のように。

人は時に覚醒夢という。わたしはそれを概念夢と呼ぶ。

※『音と意味にについての6章』ロマーン・ヤコブソン著 花輪光訳 みすず書房刊「Ⅳ音素は弁別特性の束である」p117



〈雑踏〉

なんのイベントだろうか
その夢には何らかのストーリーがあって
わたしは高低のある街の中を歩いているようである
しかしどんな物語なのか思い出すことはできない
ただその街は賑やかな祭りのように沸き立っている
わたしは坂を登り
樹木が茂る住宅地を歩いている
遠くで誰かアーティストの野外ライブでもやっているのだろうか
あるいはそこは
どこか大きなターミナル駅の駅前のようでもある
夢において
身体は風景であり
風景は身体である
とするならば
わたしの身体のいかなるコードが
この夢の風景に映し出されているのか

雑踏は母胎のように満ちる
わたしは内容のない物語を歩む



〈水辺の夢〉

水神の社に護られた
見栄えのしない水辺の町であるけれども
よく晴れた四月
川の水面に満開の桜でも映り揺れれば
この流れも
名の知れた文明発祥の
母なる大河と変わることはない
夢に於いては母なるナイルの大河も
わたしの町で
わたしの場所で反復される



〈夢の秘儀〉

震えのなかで
失意の沈下と祈りの隆起が壊れ合う
わたしの秘儀に特異なことはなにもない
秘密結社のイニシエーションも
錬金術師の秘伝書も無縁である
神秘主義者のおどろおどろしい手順も知らない
一者を目の前に見るという舞踊に興味はない
革命の守護神たる群や類の
祝祭も縁遠い
ただただ日々の営みのうちに
立ち現れる物象を報謝の色で染め上げ
目の前のあるいは河の向こうの
その人らの日々が良かれと祈るのみである
その想いが身体をも貫き
一隅を照らし
夢にまで一貫するほどに



〈市〉

待ちあわせの場所がわからなかった
ここだったとは思いもよらないことだった
なぜというに
ここは暗い沼地に近く
痛み多く不快に満ち
一刻もとどまることをわたしに許さなかったからだ
ここが
無数の匿名の時間の交換場所であり
ものが行き交う市であり
百鬼夜行の辻々だとは
思いもよらないことであった



〈休日〉

少し暑いとはいえ
この風はあまりにも心地いい
あまりにも心地よく
この場を離れ難いと身体は欲している
開け放たれた車の窓から吹き込む
この風のなかで
知らぬ間に神話の森に彷徨えば
こもれ陽が草地に揺れ
眠りは秘境への旅になる
異界の物語の時間が流れる
形象なき神話の時間が

一瞬後に目覚めれば
ここは変わらぬ
ただの市営プールの駐車場である



〈神隠しの里〉

荘厳な夕暮れの金色の雲の下で
マッチ箱のような車の列が
ヘッドライトをつけて県道を西へ東へ帰路を急ぐのがはるか向こうに見える
休暇は終わりだ
明日からまた誰もが
雑踏の中の疲れたひとりになる
金色の雲に誘い出されて
神隠しにあった子どものように
夕べの草地の上を芒洋と
彼はいつまでも彷徨する
横倒しになった枯れ葦
湿地の水溜まりに夕べの雲が反照すると
神隠しの彷徨者と古代の人々とが
無限の時間を交換し合う
マヨヒガはすぐそこにあるように手招きする
門前町の雑踏に囚徒が潜む
されど神隠しの彷徨者が夢想する
いつか村落へ還り
ささやかながら暮らしのひとこまひとこま
その一隅を照らすことを隠し神に約束する

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