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夢で靴を燃やす

ゴミ出し当番の小学生、といった心持ちで、わたしは手に古い靴を持って、靴の処分場に向かう。そこは、広大な団地の一角にある。金網フェンスがあり、休憩中に喫煙所に集まってきた周辺の勤め人といった風情の、お互い見も知らない大人の男女がそれぞれの靴を持ってくる。そして、タバコでも吸うように靴を燃やしてぼんやりと屯している。わたしは、少し恥ずかしかったが皆の前に出て捨てられた靴の脇に置いてある備え付けのものらしい着火ライターを借りて自分の古靴に火をつけた。それは勢いよく燃えていく。周りの風景は何やらぺんぺん草がまばらに生えているような印象。金網フェンスの向こうの何棟もの集合住宅。空は高く、空気は乾いているようだ。ほかには何もない。何もないという観念もない。

弔い…古い靴の弔いということなのか。確かにわたしは最近靴を買い換えた。古い靴には愛着があったが、歩き方に変な癖があるからか踵の片減りが激しく、だんだん人前に晒すのが恥ずかしくなってきたのでやむなく新調したという次第であった。そして古い靴は自治体の指示通りに燃えるゴミに出した。

ただそこで想うことは、自分も含めて、と言えると思うが、この国の人々の無意識には、古い道具や器物には魂が宿り、安易に捨てたりすると人に仇をなしたり祟ったりするというような、アニミズム的な付喪神信仰が息づいているということだ。この国においては今の時代でもモノすら生命を宿し、ペットと同じように人の生活の伴侶のようになる。そんな馬鹿な、と一方では思うが、雛人形にしろ使い古した箸や針にしろ、ちゃんと供養の儀礼を経たあとでなければ捨てるのに躊躇する、などということが現実にある。人形供養、箸供養、針供養等々を検索すればGoogleは様々なトピックを提供してくれる。靴もまた例外ではない。そんな供養や祓い清めのための寺社もあるというし、前の年の初めに買ったお守りや破魔矢はゴミに出す気にはならず、近隣の大きな神社の古札納所に年初めに納めにいく習慣がある。それら魂が宿ったモノたちを〈お炊き上げ〉する左義長、どんと焼きという風習もまだ各地に残っている。そして最近の自己啓発本には、モノを捨てるときは、ありがとうと感謝をしながら、というのがあるそうではないか。さらに数多くの百鬼夜行絵巻には付喪神が数多く登場しているし、その後継と言ってもいいと思うが、最近では付喪神をキャラ化したアニメまである。

わたしは長い間愛着を持って履き古した靴を安易に燃えるゴミに出したことに罪悪感を覚えて、夢の中で靴を火葬し、丁重に供養し弔ったのではないか。

たしかに前夜には、新しい靴の踵の片減り対策をどうしようか、なるべくなら愛着を持って長く履きたいが…などと古靴のことはすっかり忘れ新しい靴のことばかり案じて眠りについたが、古靴に宿りしあやかしが祓われることなく捨てられたことで恨みを抱き、心ない現代人にとり憑いたのではないか。

都市伝説にでもなりそうな、いかにもありそうなストーリーをここで試み興じたのは、夢の象徴を固有な個々の生活史的文脈に位置付けていくことが困難であった時代が長い間続いたということを考えるからである。

あまりにも長きに渡って、信仰や風習の文脈で夢解きがなされた時代が続いた。何事にも歴史があるように、夢解きにも歴史があり、それらを包括しておくことは夢分析という思考の可能性を開示することに寄与することになるだろう。

おそらく夢の発生機序は蒼古の時代から変わらないだろう。大雑費に言って夢は、前日にふと心を過ぎったが忘れてしまったことであるとか、自分でも意識していなかったような欲望であるとか眠っている時の感覚刺激であるとか、日常の隙間に置き忘れられたような心の断片が類比的に構造反復した形象の連鎖である。おそらくこの夢の発生機序自体は民族的なあるいは場所的な制約によっても変わることはない。変わるのは具体的な形象形態とその解釈であり、解き方である。夢形象と夢解釈にはその時代の観念的な水準や民族性や社会に流布しているイメージなどが刻印される。記録に残された夢の形態と解釈を見れば、その時代、その社会の観念の様々な形態に出会うことになるだろう。

概括的に言ってしまえば、夢は長い間、見えざるものからのメッセージであり、神託であり、お告げであった、ということができる。シャーマニズムと同様、見えざる世界への通路と見なされていたと言っていい。夢見るものは個別的なシャーマンであったわけである。その時代の人々が古い履物を燃やす、という夢を見たとしたら、付喪神のような見えざるモノたちからの、丁重に供養してほしいというメッセージと解されたりしただろう。夢の主役は見えざる神仏や霊的存在者であり、畏きものたちが夢見者や社会や国家の時間を未来に展くために語りかける、という解釈が夢解きの定型であった。それが全てではないとしても主流となっていた解読格子だった。その解読格子にとって夢は前日の心の断片の類比的な構造反復ではなく、未来の出来事の逆立した構造反復であると見なされた。あるいは、これこれこうせよ、という夢告であったりした。

このような夢解きの一般定型というのは、実は現代でもさまざまな場所で見られるように思う。例えばここで安易に一般象徴解釈を用いるならば、靴を燃やすというこの夢は死と再生をあらわしているということになるかもしれない。たしかにそういうことであろうとも思える。夢とは常にユングのいうゼルプストを目指す個性化への途上にあるところの継起的な時間の展開そのものであり、時間が展開されるには象徴としての死が必要で、その供儀が、停滞し、希薄化した時間を再び活性化し濃密化して時の流れを促進するのだから。そしてこの夢はその新たな時間の継起的展開を暗示している、だから愛用していた靴の処分という夢形象は、心の再生のために必要な死の象徴である…

このような一般象徴解釈によっては。おそらく何も得るものがない。そこには夢見人の経験や日常の隙間に落ちた思考や潜在的なコンプレックスの構造反映を見る視点がないように思える。固有な生活史的文脈は忘却され、夢見者の夢はただ解釈定型に当てはめられていく。ここにあるのは、夢解き人の解釈の枠組みと型だけであり、現実から遠ざかっていく解読格子のみである。こういった一般象徴解釈は、夢見者の固有な生活史的文脈を捨象してしまうという意味において蒼古の時代から連綿と続いてきた信仰や風習に基づいた夢解釈の一般定型と変わりない。

では改めて振り返った時に、なぜわたしは夢の中で靴を燃やしていたのだろう。しかも、名も知らぬ勤め人たちが屯するような冴えない団地の一角で。

わたしは夢の中で靴に火をつけるための着火ライターを手にする時、少し恥ずかしいと思いながら人前に出なければならなかった。この人前に出る時の少し気恥ずかしいという心理パターンは、こと古靴に関しては大いに身に覚えのあることである。愛着はあるが踵が片減りした靴を履いて例えば駅のホームで並ぶ人たちの先頭に自分がいる時やエスカレーターで一段高い位置で人前に立ったときなどを思い返してみると、片減りした靴が何やら変に目立って後ろの人にジロジロ見られているのではないか、などという考えがふと過ぎったりした。雑踏で営業職らしき若い勤め人らのいつも新品のように見える靴を見るにつけ、何か自分が劣位にあるような感覚に捕らえられた。いわゆる〈普通〉からこぼれ落ちているという感覚。

ここではたまたま靴が素材になっているが、この劣位の感覚はおそらく生涯自分から消えることはないだろう。それはあらゆる場面で、何事につけても繰り返し反復する我が無意識の基礎的シナリオである。このシナリオは現実のあらゆるエピソードを素材にしては水面上に顔を出そうとする。出来事はなんでもいいのだ。どのような出来事でも機会になる。このシナリオが自分にとって重要性のある普遍的パターンであるため夢は今回古靴に纏わるエピソードを現実世界から拾ってきたのだ、と思われる。

しかし、この夢の場面においては、その少し恥ずかしいという感覚の直後に皆と同じように古靴をわたしは燃やしている。

わたしは現実においてその時すでに新しい靴に買い換えているであり、たしかにこれまでの習慣から駅のホームで人前に並んだりエスカレーターで人前に立ったりした時、瞬間的に恥ずかしいという思いが過るが、直後に、そうだ自分はもう新しい靴に買い換えて古靴を処分しているのだから大丈夫なのだ、という安堵に切り替わるのを経験している。この〈少し恥ずかしい〉→〈安堵〉という現実体験における継起構造が、夢の中で〈少し恥ずかしい思いをしながら人前に出る〉→〈他の人たちと同じように靴を燃やしている〉という場面転換に正確に反映されていると見ることができる。〈他の人たちと同じように靴を燃やしている〉というのは、その場の暗黙のコードに従っている、ということになる。

その安堵は、例えば電車の同じ車両に乗り合わせただけの黙った人々や朝のカフェでスマホをいじったり本を読んでいたりする人たちに紛れても、自分が変に目立ったり、劣位にあるという感覚に襲われたりすることなく〈普通〉でいられている、という感慨深い体験である。その場の暗黙のコードから全く逸脱していないことが重要である。

この夢の中の人たち、休憩時間になり、近くの喫煙コーナーにふらふらと集まってきたようなお互いを見も知らない勤め人たち、この人たちの時間の流れや行動パターンにわたしもすっかり同調しており、何も考えずに溶け込んでいる。そこには劣位の感覚も優位の感覚もない。だだ皆がそこに在るようにわたしもそこに在る。それは、連帯感とか慰安とか一体感とか、何かその場の人たちとの倫理的な共感性というのとは全く違う。そんなものは何もない。ないという感覚すらない。

また他の人たちと何ら変わることのない〈普通〉の固有象徴としてここでは、何棟もの集合住宅がどこまでも続く冴えない団地の光景が呼び寄せられている。それは、郊外に少し足を伸ばしてみればどこにでもあるような古い団地の光景である。どの棟を見ても変わり映えせず、区別することができない。その光景は、その場所に寄り集まった普通の勤め人たちのメタファーそのものだ。そしてこの夢ではその〈普通〉が救済になっていると言える。

ただ古靴を処分した、というささやかな日常のエピソードになんと大げさな意味を付与しているのだ、とも思われるが、夢が描いているのはこのエピソードから立ち上る構造であり、性格劇に潜む普遍的パターンである。

さらにこの夢を「夢想」し続けてみると、ただこの古靴に纏わるエピソードだけならこの夢をみることはなかったろうということに気づかされる。

前日の昼間、仕事上のことでeメールの返信をしたあと、ふと慣用的な表現を無意識のうちに使っていたことに気づいた。そして、もしかしたらその使い方を間違えていたのではないか、という不安に襲われた。というのも自分はどういうわけか慣用句をうまく使いこなすことができず、見当違いな場面でおかしな慣用句を引用してしまう、ということが頻繁にあったから。例えば「身に余る」と「手に余る」は全然違う意味であるにもかかわらず、「余る」という発音に連合されて「手に余る」というべきところで「身に余る」を使用してしまうとか。少し似ているだけで全く意味が異なる慣用句を混同してしまう。幸いこの時は自分の文面を読み返してみて間違った使い方はしていなかったことを確認できたので、杞憂であった。

慣用的表現に失敗してしまうことが頻繁であるので、そこには隠された構造があるに違いないとこの時考えたが、次の作業に集中する必要があったためそのことはすぐに忘れてしまった。その思考は、日常の隙間に置き忘れられた。

フロイトが失錯行為や言い間違いにヒステリー症状や夢と同様、病的葛藤の徴候を見たように、慣用的表現の失敗を反復することには何かがある。

これは別の例で言うと俳句作者がこなれていない季語を間違った季節表現として使用してしまうことに似ている。例えば、時雨という季語は初冬の季語であるようだが、あまり使い慣れていない俳句作者がたまたま夏の雨を詠もうとした時に「時雨」を使用してしまった。

ここにあるのは、ある集団の内側で共有されている約束事へのアクセスがうまくいっていない、ということであるように思える。慣用的表現にしろ俳句の季語にしろそれを共有している共同性への親和感がなければ、うまく使いこなすことはできない。あるいは自分の中の〈一般者〉がうまく集団の共同性と同致していることが必要であるように思えるのである。

単に、慣用句や俳句の勉強をもっとすればいいのだ、ということにもなりそうだが、いくらそれらを勉強したところで自分の中の〈一般者〉がうまく形成されていないところでは、失敗は繰り返される、という仮説が成り立つのではないかと思う。表現する時の規範意識がそこでは問題なのであり、いくら勉強したところで、この規範意識が希薄なところでは何も解決しないではないか。

ある集団の約束事へのアクセスが失敗している、というこの状況は、未開社会において成人となるためのイニシエーションに挫折して、大人社会の一員となることが留保されてしまったようなことである。いくつになっても未成年。彼は集団の中に身を置きながら、集団の外にいる。劣位の感覚が彼を苛む。

全く意識していなかったのだが、ここにおいても古靴に纏わる劣等感と同じ無意識の基礎パターンが反復されている。
古靴と慣用句の日常的エピソードの背景には同じ構造が潜在していて、私は同じ日に全く別の出来事を通して同じことを考えていた、ということになる。

さらに想起されるのは、その夜のことだ。わたしはなぜか心理療法の主流である認知行動療法のことを考えたのだった。何がきっかけだったか。

認知行動療法という言葉は知っていてもわたしは詳細はよく知らないのだが、大雑把な把握では意識における入力と出力の間に確固としてあるプログラムを改変することによって患者の困難な状況を解決することである、となると思う。そのプログラムの基幹ある構造がスキーマと呼ばれたり、具体的な出力プログラムが自動思考などと呼ばれているらしい。
ある出来事によって無意識のうちに気分が果てもなく沈み込んだり、自傷行為に及んだり、妄想や幻覚が喚起されたりといった言わば精神の〈泥沼化〉プログラムが自動的に作動してしまうとすると、その自動的に作動するプログラムを改変することで気分や行動に望ましい結果をもたらそうという構想である。

しかし、その新しいプログラムをどうイメージしたらいいのだろうか。

ある種の自己啓発プログラムやニューエイジ的な神秘思想のように「ポジティブ思考」を自己暗示して無意識に植え込めばいいのか。コップに水が半分残っているとして、もう半分しかない、ではなくまだ半分も残っていると捉えればいいのか。

どうもそうではないように思える。これでは古いプログラムとの一貫性ということが全く考慮されていないように思われる。うまい喩えとは言えないかもしれないが、古いOS上にはさまざまなアプリケーションやデータが存在しており、それを一気に上書きしてしまえばアプリケーションは作動しなくなるし、データは飛んでしまう可能性がある。古いOSとの一貫性のあるバージョンアップこそがここでは必要なことである。あるいは新しいOSは、各端末ごとにローカライズされなければならない。

もし、ポジティブ思考なるプログラムを意識に植え込んだとして、物事をプラスに捉えるとかなるべく笑顔でとか自分を褒めて他人も褒めるということを心がけるようにしたとしても、強固な古い〈泥沼化〉プログラムは潜在するだけで消えたりしない。ここでは必ず新しい〈ポジティブ思考〉プログラムをペルソナ上で演技する、ということが起こる。〈泥沼化〉プログラムと〈ポジティブ思考〉プログラムは分裂し、当人は自己欺瞞の感覚に苛まれることになる。

では認知行動療法における新しいプログラムについて、〈ポジティブ思考〉ではない、どんなイメージを思い描けばいいのか。〈泥沼化〉プログラムが作動しそうになった時どんな別のプログラムを作動させれば感情や行動によい結果がもたらされるのか。

わたしがこの夜に思い浮かべたのはなぜか、地下鉄の階段を上り下りするような普通の勤め人の男女の映像である。自分も含めて、彼らは、いつも変わらず、朝起きて、生活の糧を得るために出かけ、夜に帰宅して夕飯を食べて寝る、という生活を繰り返す。大衆存在への共感とか連帯とか、おこがましい特別な倫理的感情を込めてこのイメージが喚起されたわけではない。むしろ、否定でも肯定でもない、何の感興もわかない情景だからこそ思い浮かんだのだ、と言わなくてはならない。

〈泥沼化〉プログラムは別にそのままでよい。ボロボロだろうがダメダメだろうがかまわない。毎日の習慣に体を従わせるということ、それだけに集中する。為すべきをひたすら為す。個性的な個人として〈自己実現〉するためではなく、むしろ何事も実現などしないために生きる。生存を続けるために生きる。雑踏のなかで流れに従い、型にはまった生活を反復する。

そのイメージが意味するものを仮に中性プログラムと呼ぶとすると、このような面白くも劇的でもない中性プログラムが必要な精神がこの社会には少なからず存在していると思える。雑踏に没し、余裕のない市井の隠者として習慣にしがみつくことが救済であるような精神が、である。

靴を燃やす夢の中で、休憩中に近所の喫煙コーナーにふらふらと集まってきたようなお互いを見も知らぬ勤め人たちの光景、そしてその背景の団地の光景は、この中性プログラムの典型像としての、地下鉄の階段を上り下りする人たちの投影像だった、ということがここで理解できるのである。わたしはその中で、その場のコード通りに、他の人たちと同じように古靴を燃やした。その行為には羞恥を感じることも逸脱の感覚もなかった。

夢の前日の日常の隙間に置き忘れられたこれら三つの物思いが、夢の中で一つの構造のもとに吸着し、同期し、固有な象徴像として転換した、そのように言うことができる。

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