愛あります

「冷蔵庫が壊れた」
 潤から電話があったのは昨日の夜のことだった。
「え?」
 俺は、ドラマを観ながら風呂が沸くのを待っていた。リモコンでテレビの音量を下げながら潤の話を聞く。
「いや、昨日出張から帰ってきて、玄関開けたら変なにおいがして……キッチンがにおうからさ、冷蔵庫開けたらビンゴだった」
「冷蔵庫の中のもの全部ダメになってたってこと?」
「うーん、出張で家空けるのわかってたから、生ものは食べ切ってて大丈夫だったんだけど、冷凍庫がね……やばかったね。アイスとか棒だけになってた」
 全部溶けてしまったアイスとその他諸々の後始末を想像して、腐ったにおいを嗅いでもないのに、胸がうっと詰まる。
「なにか手伝うことある?」
「もう掃除したから大丈夫。ありがとう」
「そっかあ、大変だったね」
 ちょっとくたびれた潤の声を聞いて相槌を打つ。
「それでさあ、今日冷蔵庫を買いに行ったんだけど、春からの新生活に備えてこの時期家電が売れるから品薄みたいで、届くまで早くても5日かかるんだって」
「5日も? 結構かかるね。その間かなり不便じゃん」
「そうなんだよね。食材買っても保存できないし、料理もそのとき食べる分だけしか作れないからインスタントか外食ばっかりになるし、5日はきついんだよね」
 受話器越しにはあ、とため息をつく潤に、「じゃあ、しばらくうちでご飯食べる?」と提案した。
「ええ〜? いいの?」
「いいよ、というか、ちょっとそれ期待してたでしょう」
「バレたか」
 はははと二人して笑いながら、「じゃあ明日仕事終わってからうちに来なよ。なにか食べたいものある?」
「なんだろ……魚がいいかなあ」
「わかった。考えておくね。明日仕事終わったらまた連絡して」
 そう言って俺は電話を切って、すでに沸いてからしばらく経った湯に浸かった。

「魚かあ、」
 ぽつりと呟く。
「なんすか? 魚って」
 頭上から声がして思わず怯む。振り返って見上げると、柴田が怪訝そうに俺を見下ろしていた。
「うわ、」
「うわってなんですか、うわって」
 ぐちぐち言いながら柴田が隣の席に座って、手に持っていたビニール袋から包み紙を取り出した。
「だって急に声かけられたらびっくりするじゃん。あれ、それなに?」
「ちょっと腹減っちゃって。交差点のところにあるパン屋に行ってきたんですよ」
 簡単な包装を取ると、素朴な風合いのコッペパンが出てきた。
「あ、パンか。パンいいな」
 俺はそう言ってパソコンの画面に視線を戻す。
「草間さんの分も買ってくればよかったですね」
「え? ああ、違う違う。夕飯の献立考えてただけ。柴田のおかげで決まった」
「あ、そうですか」
 もぐもぐと口を動かしながら、柴田も自分の業務に戻った。

「トマトは入れたし、じゃがいもはあるし……魚は……」
 頭の中で冷蔵庫の中身を思い浮かべつつ、必要なものを抽出していく。今日のメイン、魚はなににしよう。スーパーの鮮魚コーナーをじっくり観察しながら考えていると、セール品の棚に鱈が置いてあるのが目に入った。
 二枚と三枚、どちらにするか悩んで三枚のパックを手に取った。
 レジで会計を済ませて家路につきながら、買い忘れがないか頭の中でチェックする。うん、大丈夫と思ったところで、ポケットの中のスマホが震えた。
「今終わった〜 1時間後くらいに着く」
 ホーム画面には潤からのメッセージが表示されていた。適当にスタンプを選んで送り、スマホをしまう。潤がうちに着くまでに完成はしないけど、いいところまでは調理が進んでいるだろう。なにを最初に作るか段取りを考えながら歩いていると、あっという間に家に着いた。
「さてと、」
 Tシャツとジャージに着替えて、調理の前に手を洗う。まずは汁物を作る。今日は野菜ごろごろポトフにする。ここ数日はインスタントか外食と言っていてから、野菜多めに食べたいはず。家にある野菜をなんでも入れてしまおう。ついでにメインで使う野菜も切っておく。
 今日のポトフには、人参、キャベツ、玉ねぎ、じゃがいもを入れる。あとなにか加工肉があるとダシが出ていいんだけど、加工肉っぽいのはちくわしかないので野菜だけ。
 乱切りにした人参をオリーブオイルで炒めて、ちょっと焦げ目がついてきたら大きめの一口大に切ったじゃがいもと、くし切りにした玉ねぎを入れて炒める。 
 じゃがいものまわりが透き通ってきたら具材が浸るくらいまで水を入れて、鍋に蓋をしてしばらく放っておく。人参が煮えたらコンソメを入れて、ちぎったキャベツを入れてまた煮る。
 その間に副菜を作る。副菜はピーマンの焼きびたし。魚焼きグリルで丸ごと焼いて、それをポン酢に浸すだけ。ちょっと砂糖を入れてもいいし、ラー油を垂らしてもうまい。
 一袋分のピーマンをグリルに並べて焼く。焦げ目がついたらひっくり返して、全体を満遍なく焼いていく。皮が裂けて、中の汁が出てきたら頃合い。そしたら引き上げて、ポン酢に浸す。どんどん焼いたからすぐに終わった。
 残るはメインの準備だ。これもあっという間にできるので、潤が来てからやることにする。時計を見ると、夕飯の準備を始めてから30分ほど経っていた。
 潤が着くまでに風呂掃除を済ませておきたい。でもその前にポトフの様子を見ておこう。蓋を開けて、人参の煮え具合を確認する。まだ少し硬い気もするが、概ね良いだろう。コンソメとキャベツを入れて、少し火を弱めてまた蓋をする。
 ピンポーン。
 タイムアップ。風呂掃除まではできなかったがまあいい。
「はーい」
 言いながら、ドアを開けるとスーツ姿の潤が立っていた。
「お疲れ〜」
「お疲れ、これお土産」
 はい、と細長い包みをビニール袋ごと渡される。受け取るとずしりとした重み。中には四合瓶が入っていた。
「あ、日本酒だ」
「せいかーい」
「ありがとう。もうちょっとでできるから待ってて。それにしても大変だったねえ」
「そうねえ」
 上着をかけながら潤は、「冷蔵庫、なんでもいいからはやく届くやつを選んだら、思ったよりデカイかもしれない。入るとは思うけど」
「そうなんだ。冷蔵庫高かった?」
「まあまあって感じ」
「まあまあかあ」
 ポトフの具合を確認する。おたまでスープを少し掬って味見をする。ちょっと塩気が足りない。塩をひとつまみ加えて、鍋をそっとかき混ぜる。
「お、ポトフ? いいね」
「ちょっと味が薄いかも。味見してみて」
 シンク横の水切り台に置いてあった小皿にスープを少し入れて潤に渡す。
「ん、うまいよ。このくらいでちょうどいいんじゃない?」
「じゃ、ポトフは完成〜」
 火を止めてまた蓋をして、冷蔵庫から魚のパックを取り出す。身を半分に切って魚の水分をキッチンペーパーで押さえる。
「潤〜、じゃがいもとトマト入ってるボウル取って〜」
 俺はフライパンにオリーブオイルを垂らしながら言う。
「はいはい」
「そこ置いといて、ありがとう」
 熱したフライパンに鱈の皮目を下にして入れる。ジュワッという音がして、油が少し跳ねる。鱈を両面焼いたら、薄切りにしたじゃがいもと、半分に切ったミニトマトを広げて、ニンニクのチューブをちょっと絞り入れる。あとはタイムを散らして、酒と水を回しかけて煮立ったら蓋をする。
 この時点でオリーブオイルとニンニクのいい香りがする。
「潤、ちょっと悪いんだけど、このパン切って焼いてくれない?」
「今日パン? どのくらいの厚さに切ればいいの? このくらい?」
 包丁を立てた位置でパンの厚さを測る潤に、そのくらいでいいよと言いながら、ボウルなどをまとめてシンクに置く。
「ごはんもあるよ。冷凍だけど」
「うん、とりあえずパン食べる」
 トースターに切ったバゲットを並べながら潤が返事をする。
「今日は洋風メニュー?」
「そんな感じ」
 そろそろいい具合に煮えている頃だろう。フライパンの蓋を取る。
 ふわっと、ニンニクの香り。スプーンで汁を少し掬って味見をする。
魚のうまみとオリブーオイル、トマト、ニンニクの味がギュッと凝縮している。塩もなにも入れてないが、蒸し煮にされた食材のうまみで全然物足りなさを感じない。でも、黒コショウをたくさんふりかけて食べるともっとうまくなると確信して、火を止めたあとに、ゴリゴリ黒コショウをふりかけた。
 焼けたパンを盛り付けていた潤がフライパンを覗き込んで、「うわ! うまそう!」と思ったことをそのまま口にした。
「うまいよ、この汁を焼いたパンにつけて食べたら絶対うまいよ」
「いいねえ」とにこにこ言いながらリビングに行く潤のあとを追って、鍋敷きの上にまだ熱いフライパンを置く。大皿に盛り付けるより、フライパンから直で取り皿に分けると臨場感があって、もっとおいしく感じる気がする。
「ポトフあっためるね」
「ありがとう」
 冷蔵庫に入れておいたピーマンの焼き浸しを取り出して、箸などと一緒に持っていく。
「せっかく持ってきてくれたから日本酒飲もうか」
「やったね〜」
 ポトフを盛り付けて運んできた潤が嬉しそうな顔で着席した。
「はい、どうぞ」
 俺はおちょこ代わりの小さなグラスに日本酒を注ぐ。自分の分も注ごうとしたら、潤が瓶を取り上げて注いでくれた。
「乾杯〜」
 それぞれに言って、カチッとグラスの縁を合わせる。
「あ〜〜」
 潤が喉の奥から絞り出したような声を上げる。
「うめえな、これ」
「かなりキリッとしてるね。魚に合いそう」
 口々に酒の感想を言いながら、スプーンを手に取ってポトフをすする。
「あ、うまい」
 野菜のだしが出ているスープ、ポトフの人参ってなんでこんなにほくほく甘いんだろう。火の通りが悪いから、小さめに切ったけど、もうちょっと大きく切った人参を味わうのもいいなあと思いながら、じゃがいもを口に運ぶ。よく煮えたじゃがいもが口のなかで溶けていく。新じゃがってちょっと特別な味がする。くたくたになったたまねぎやキャベツも甘くてうまい。
「野菜たくさん食べられるの嬉しい」
 潤が予想通りのことを言ったので、心のなかでガッツポーズをしつつ、俺は「よかった」と笑った。
「魚も食べてみよう」
 大きな取り分け用のスプーンで魚とじゃがいも、トマトを満遍なく盛り付ける。もちろんうまみの溶け出したスープも。
 潤が魚の身を口に運ぶのを見ながら、自分の皿にも盛り付ける。
「うまい! これうまいなあ」
 そう言ってキュッと日本酒を一口。
「本当に魚に合う」
 ご満悦の潤を横目に、俺もメインの魚を頬張る。
 口に入れた瞬間、ニンニクとハーブの香り。舌の上で鱈がほろりと解ける。続けてじゃがいもを口に運ぶ。じゃがいもはなんだかもっちりした食感。切り方で少し変わってくるのだろうか。鱈、トマトをはじめとするすべてのうまみがじゃがいもに移っていて、次々口に放り込みたくなる。
 ぐずぐずに煮えたミニトマトと、オリーブオイルが合わさって、口のなかが爽やかな甘みで満ちる。ここに辛口の日本酒を流し込むと、目の奥がスカッとするほどうまい。
「これ、汁をつけるだけじゃなくて、パンにのせて食べたらうまいんじゃない」
「絶対うまい」
 潤は頷いて、パンの上に鱈、じゃがいも、ミニトマトを並べて、その上にスプーンでうまみの染み出した汁をかけてがぶりと頬張った。
 パンからはみ出た具材が皿の上に落ちるのも構わずに、「あ〜、うまいなあこれ」と感想を述べた。
「パンのもちもちのところと一緒に食べると、全部のうまみを包んでくれる感じになってめっちゃいい」
 俺も潤の真似をして、パンに具材をのせ、パクッと一口食べてみる。パンのカリカリのところと、もちもちのところの食感のコントラストがいい。潤の言う通り、柔らかいところにうまみが染みる。小麦の風味と合わさってまた違う味わいになっておいしい。潤が焼いたパンの焼き加減も絶妙だ。
 咀嚼しながら、なんだっけ、外国のおつまみでこういうのあった気がする、ピンチョスだっけ? とか関係ないことにまで思考が飛んでいく。
「このピーマンもいいね。口のなかがさっぱりする」
「ちょっと和風っぽくて、テイストが違うかなと思ったけど、よかった。俺もこれ好き」
 丸ごと焼いたピーマンはジューシーだ。それにポン酢の酸味が効いて、たくさん食べられる。
「夕飯にパンっていうのもなかなかいいね。ごちそう感あるっていうか」
 潤の言葉に頷いて、俺は酒をちびりと飲んだ。
「なんかさあ、昨日スーパーに買い物に行ったんだけど、冷蔵庫ないから買えるものも制限されるじゃん。それでどうしようかなって思ったときに、野菜の他に魚肉ソーセージとツナを買ってて。でも、ちょっと前までは、その二つは自分で料理したり買い物したりするときにリストに上がらないような食べ物だったのね」
「うん」
 相槌だけ打って話の続きをうながす。
「常温で保存できるっていうのもあるけど、なんでかなあって考えたときに、これ健介がよく食べてるからだって気がついたんだよね」
 聞きながら、潤の言う通りツナは色んな料理に使うし、魚肉ソーセージもそのまま食べたり、炒めたりよく食べてるかもしれないと、考えを巡らせていた。
「確かにそうかも」
「そうかもじゃなくて……」
 潤はちょっと拍子抜けしたような顔をして、グラスを傾けた。
「そうかもじゃなくてさ、知らない間に健介の好みとか移ってるっていうか、影響受けてるんだなあって思ったの。それだけ」
「うわあ、それってラブじゃん」
 この人、こういうこと口にするんだと意外に思ったのと、咄嗟の照れ隠しでふざけた口調になってしまった。
「知りませーん」
 潤は拗ねた様子でピーマンを摘んだ。
「ね、じゃあさ、冷蔵庫届くまでうちで一緒にご飯食べようよ。潤と一緒にご飯作ったり食べたりするのが俺は一番楽しいから」
 さっきの言葉の意味を詳しく知りたくて、素直な気持ちを伝えたくて、そのためには共有できる時間が必要だ。
「いいよ、それじゃあ明日は俺がご飯作る。今日は泊まって行ってもいい?」
「もちろん。それじゃあもうちょっと飲んだら寝る準備しようか」 
「うん」
 空になった潤のグラスに酒を注いで、俺のグラスにも少し酒を足してもらってから、どちらともなくグラスを傾けて、もう一度小さく乾杯をした。

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