自分で作って自分で食う!

 手からニラのにおいがする。寝る前に歯を磨きながら思う。
 夕食に作ったニラ玉のニラを切ったときについたにおいがまだ手に残っている。さっき風呂に入って、顔を洗ったときもくさかった。料理の後も手を洗ったし、時間も経っているのに。
 まあしょうがない、明日起きたらにおいが消えているのを願いながら俺は寝床についた。

「お昼行ってきます」
「はい、いってらっしゃーい」
 隣の柴田が席を立つ気配を感じる。パソコン画面には、12時24分の時刻表示。
「草間さんは今日弁当ですか?」
 柴田が鞄から取り出した二つ折りの財布をポケットに突っ込む。
「そうそう、俺もそろそろ飯にしよっかな」
 パソコンをスリープモードに切り替えながら返事をする。
「一昨日ちょっと前にできた汁なし坦々麺の店行ったんですけど、結構旨かったですよ。今度草間さんも一緒にどうっすか?」
「マジで? 行く行く。今週の金曜は? あ、そうすると柴田、週に2回坦々麺になっちゃうな」
 2歳下の柴田はなにかと俺のことを飯に誘ってくれる。年下からこうやって誘ってもらえると嬉しいし、なるべく誘いに乗りたい気持ちになる。
「それは全然いいっすよ。俺、一回ハマるとそればっか食べたくなるタイプなんで」
「そうなの?」
「はい、じゃあ今週の金曜日は弁当なしでお願いしますね。それじゃ、飯行ってきます」
「了解〜」

 柴田を見送ってから、弁当と水筒が入った小さな鞄を持って俺も席を立つ。
 自席で昼飯を食べる人もいるけど、自席にいると休憩していても電話対応しなくちゃいけなかったり、仕事を頼まれたりするから飯を食うときは休憩室に行くことにしている。
 休憩室は殺風景だけど、各々が他の人のことを気にせず過ごしていて、居心地はそう悪くない。
 俺は大抵壁際の1人がけ用の席にいることが多い。今日もいつもの席が空いているので、そこに座る。
「よいしょ、」
 小さな声で言って腰掛ける。
 黒いミニトートから、バンダナに包まれた弁当箱(という名のタッパー)を取り出す。弁当のおかずは昨日の夕食の残りが多い。多めに作って弁当に詰めて持っていく。
 昨日のニラ玉も多めに作ったけど、においが気になるから弁当には入れてこなかった。
 今日のおかずは、蒸したキャベツと玉ねぎの上に甘辛く炒めた豚肉をのせたやつと、千切りにしたにんじんとツナを炒めたやつと、ゆで卵。それにふりかけご飯。にんじんが入ってるから、色どりもまあまあいい。
 いただきます、心の中で呟いて、プラスチック製の箸を取る。
 まずキャベツ。春キャベツは柔らかくて甘みが強くてうまい。レンジで数分温めるだけですぐ火が通る。最高。春は玉ねぎも美味しい。
 甘みが強い野菜に、しょうゆ、酢、みりんで炒めた肉の旨みが絡む。
 レンジで蒸した野菜に炒めた肉を乗せるだけで簡単だし白米と合うし、何度か作ってるけど飽きない。
 この、加熱してまろやかになってるお酢がいい。
 今度はタレをポン酢にして作ってみてもいいかもしれない。食べながら次はこうしようって考えるのは楽しい。もちろん、外食も好きだ。でも、毎日は飽きるし、胃もたれするし、なんとなく体調が優れない。
 それに、自分で作って食べるのは特別上手くないけどホッとする。まずいとかうまいとかそういうことじゃなくて、自分の味って感じ。
 米を頬張りながらにんじんを口に運ぶ。噛むたびにツナの塩気と旨味が広がる。ゴマがふってあるとさらにいいけど、あいにく今日は切らしていた。帰りに買って帰ろう。あ、でも今日は仕事の後に人と会う予定があることを思い出す。
 半分に切ったゆでたまごは、うまい具合に半熟になっている。にんじんにこの半熟の黄身をちょっと混ぜて食べると味が変わってまたいい。ねっとりとした口当たりと黄身のコクで米が食べたくなる。
 そうやっておかずと米を交互に口に運ぶとあっという間に弁当箱が空になる。
 弁当箱の蓋を閉めて、小さめの水筒から温かいほうじ茶を注ぐ。
 ふわりと香ばしい香り。お茶はなんでも好きだが、気がつくとほうじ茶をよく飲んでる気がする。
 ゆっくりお茶を流し込みながら、今日の弁当もまあまあうまかったな、と余韻を楽しむ。
 ちら、と腕時計を見ると、まだ30分ほど休憩時間がある。午後に飲むコーヒーを買いにコンビニに行って、新発売のお菓子とかぶらぶら見てゆっくり戻るのにちょうどいい。
 底に残ったほうじ茶をぐっと飲み干して俺は席を立った。

「お疲れさまです、お先に失礼します」
 デクストップの電源を切って席を立つ。
「あれ、草間さん今日早いっすね」
 入力作業をしていた柴田が顔を上げる。
「うん、今日ちょっと用事あって。急ぎでやること特にないよな?」
 上着を羽織りながら念のため確認する。
「ないですよ〜、多分。俺もこれ終わったら帰ります」
「オッケー、それじゃまた明日」
 首にかけた社員証を外して紐をまとめる。
「はい、お疲れさまでーす」
 打刻をして自宅とは反対方向の地下鉄に飛び乗る。別に急いじゃないが、早い方がいい。
 俺の職場から電車で25分、降りて駅から徒歩12分。途中スーパーに寄る。
ちょっと前まではこの時間になると真っ暗だったのに、今はまだ明るくて、だんだん春になっているようで嬉しい。
 上着のポケットからスマホを取り出して、ラインを起動する。
「もうすぐ着く。なにかいるものある?」入力して送信。すぐに既読がついた。
「おつかれ〜 特にないよ。どうもありがとう」タップして、了解を意味するスタンプを送って、スマホをしまう。
 その足でスーパーに入る。いるものは特にないと言っていたけど、お菓子か酒かなにか買って行こう。
 春季限定の文字が目に入って、ビール売り場の前で足が止まる。春になるとなぜかビールが飲みたくなる。炭酸が恋しいというか、軽い飲み心地のものが飲みたい。
 ロング缶を2つ手に取ってレジに向かい、自動レジで支払いを済ませて店を出る。
 さすがに空が暗くなってきた。長く伸びた雲が近い。でもやっぱり朝夕は冷える。冷たさの残る空気を頬に感じながら歩いていると、あっという間に目的地に着いた。
 アパートの二階、階段から一番近い部屋のインターホンを押すとすぐにドアが開いた。
「おつかれさま〜」
 グレーのスウェット姿、寝癖がついたままの頭。
「おう、潤。寝てた?」
「いや、起きてたよ。外に出てないだけ」
「まあ潤は今日仕事休みだしね。あ、これ、ビール買ってきた」
「やった〜! どうもありがとう!」
 無邪気に喜ぶ潤を見ながら部屋に入る。玄関入ってすぐにあるキッチンでは、なにかが煮える香りがする。
「いいにおい、なに作ってんの?」
 上着を脱いで、適当にリビングの方に投げる。腕まくりをして手を洗いながら聞く。
「手羽先と大根を煮てる」
「めっちゃうまいやつだ」
 潤は冷蔵庫にビールを入れてから、コンロの前に立って、落とし蓋代わりのアルミホイルをめくった。
 俺も横から鍋の中を覗き込む。とろみのついた汁がぐつぐつと煮えている。
「うわっ、うまそう! 俺これすげー好き」
「うーん、もうちょっとかな」
 菜箸を大根に刺した感触を確かめながら潤が独り言みたいに言う。
「うちでも手羽先と大根の煮物よく出たけど、味付けが全然違うんだよな。うちは基本的になんでもしょうゆと砂糖がメインだったけど、潤が作るのは、お酢が効いててうまいんだよ」
「母さんがお酢で煮てたのを真似してるだけだけどね」
「あと、うちのはたまご入ってることもあったけど、潤はこんにゃく入れてることもあるよね。こんにゃくのぎゅむぎゅむした歯応えに味が染みてるのがうまくて好き」
「そうかな」
 落とし蓋を戻して再び煮る。背後でピーッとご飯が炊けた音がした。
 潤が空いているもう片方のコンロで味噌汁を温めはじめる。
「そういえば健介に飯作ってって頼むと、たまごが入ってる料理が多くてびっくりしたかな。俺はたまごほとんど使わないから」
「たまごは万能じゃん。逆にたまごないと困らない?」
 備え付けの引き出しから箸を二膳、棚から小皿を二枚取り出しながら聞く。
「え〜? そんなにたまご使うことある? 例えば?」
「例えば……ゆでたまごとブロッコリーをマヨネーズで和えてサラダにしたり、たまご焼きにして弁当に入れたり、汁物に入れたり、色々」
「ああ、弁当ね。確かに弁当はたまご焼き入ってると嬉しいよね」
 かつて食べた弁当の記憶を反芻して潤の顔が少しゆるむ。これも持って行って、と渡された台拭きを受け取ってリビングに入る。
 潤は布団がかかっていない炬燵を年中机代わりに使っている。炬燵の上を軽く拭いてから、箸と皿を並べてキッチンに戻る。
「なんかさあ、お互いにご飯作り合ったり、一緒に作ったりすると、同じ食材でもこういうふうに調理するんだ〜とか、この料理にこの食材入れるんだ〜とか、色んな発見があって面白いよね」
 炊けたばかりの飯を混ぜながら潤に話しかける。
「俺は実家でも、あんまりお酢って使ってなかったから、結構新鮮だったんだよね。それに、潤になに食べたい? って聞くと、南蛮漬けとか、揚げ鶏の甘酢和えとか、いわしの梅干し煮とか、そういう酸味が効いたおかずのリクエストが多くて意外というか……自分一人のときは絶対作らないおかずだから、料理のレパートリーが増えて嬉しかったよ」
 深めの大皿に手羽先と大根の煮物を盛り付けていた潤が振り返る。
「え〜? 言われてみるとそうかも……自覚してなかったけど、酸っぱい味付けの料理好きなのかも」
「自覚なかったんだ、面白いな」
 ご飯をよそった茶碗を持って後に続くと、キッチンに向かう潤とすれ違う形になるが、狭くてすれ違えない。通してくださーいと呼びかけると、俺の両手がふさがっているのをいいことに、腹をえいえいっと強めに突かれた。
「ちょ! やめろよ〜」
 潤は心の底から楽しそうな表情で、「ちょっとお腹が出てるんじゃない?」と言ってきた。知りませーんとシラを切ると、にっこり頷いてキッチンに戻った。直後、「味噌汁持って行くからさあ、冷蔵庫に入ってるキャベツの和え物とビール持って行って」と頼まれた。はいはいと返事をして、潤に言われた通りにする。
「はい、準備できました〜」
 味噌汁を運んできた潤が言う。
「うわ〜! うまそう! 食べていい?」
 煮込んでつやつやになった手羽先と大根。見た目からしてうまいに決まってる。副菜はキャベツとゆかりの和え物。やっぱり酸っぱいの好きじゃん、と思わず笑ってしまう。豆腐となめこの味噌汁も湯気までうまそうだ。
「どうぞ〜」
 その途端、缶ビールのプシュッと小気味のよい音がした。
 それを合図に、俺は煮物に箸を伸ばす。照り照りの大根をつまんで口へ運ぶ。前歯が大根に食い込む。その瞬間、熱い汁がジュワッと口内に広がる。この瞬間がたまらない。大根の水分と甘酸っぱいタレの味が混ざって最高にうまい。柔らかさと味の染み込み具合から、手間をかけて作られたことが知れる。
「大根めっちゃうめえ」
 はふはふと口の中で大根を転がしながら伝えると、潤は「よかった」とニコッと笑って自分も煮物に手をつけた。
「ビールもなかなかいいよ。俺、結構好きかも。今度自分で買ってみようかな」
「マジで? 俺も飲も」
 次は手羽先にかぶりつく。口からはみ出た部分を手で引っ張ると、中で肉がほろほろと解けた。酢のおかげか生臭さが一切ない。まろやかな甘みと酸味、そして鶏の脂が舌を撫でていく。その余韻があるうちに、ビールを流し込む。ビールの苦みと炭酸が脂を拭い去っていくので、一度さっぱりした口内にまた手羽先を迎え入れたくなる。
「あ、ほんとだ。結構ビールうまいね。っていうか、手羽先めちゃくちゃ柔らかい」
「うん、まあまあうまくできた」
 潤は箸で半分に割った大根を味わいながら自己評価を下す。
「すげえうまいよ、長い時間煮たの?」
「いや、そうでもない」
 へえ、と返事をして今度はキャベツのゆかり和えを口に運ぶ。キャベツのシャキシャキ感が損なわれていない絶妙な火加減と甘みに、塩辛いゆかりがよく合う。白米を一口二口掻き込んで、味噌汁をすする。なめこの味噌汁ってなんでこんなにうまいんだろう。つるりと喉を通り抜けていく食感も好きだ。温かい味噌汁が五臓六腑に染み渡って、体が芯からぽかぽかしてくるのがわかる。
「キャベツもうまい。煮物がわりとこってりしてるから、さっぱりしていい。味噌汁、自分で作るとなんかピンと来ないことがあるんだけど、潤の味噌汁はいつもうまいよな。なにが違うんだろう」
「健介が作る味噌汁もおいしいよ」
 潤はそう言って一口味噌汁を飲んだ。

 あっという間に食べ終わってしまった。皿はあらかた空になり、ビールの缶も随分軽くなった。
 テレビでバラエティ番組を流し見していたら、「今日は泊まって行く?」と潤が聞いてきた。
「どうしようかな、今日着替え持ってきてない」
 底に残ったビールの量を確かめるみたいに、缶を振りながら悩むふりをする。
「この前泊まったときに置いていったワイシャツ洗濯しておいたよ。ネクタイ同じのつけて行くの気になるなら俺の貸してあげるし」
「洗濯してくれたの? どうもありがとう。それじゃあ泊まって行こうかなあ……」
「やった〜!」
 潤は勢いよく言って、残りのビールをぐっと煽った。

「そろそろお昼行こうかな」
 隣の柴田がこっちを向く。
「あれ、草間さん今日弁当じゃないんすか?」
「うん、ちょっと昨日夜更かしして朝起きられなかったから」
 椅子の背にかけていたジャケットを羽織りながら答えると、「そうなんですか、珍しいですね。それじゃあ今日あの坦々麺行きますか?」と柴田が昼食に誘ってくれた。
「え、いいの? やった〜」
 思わず頰がゆるむ。今行ったら並ぶかな? などと気分はもう担々麺に向いている。柴田は俺の顔を覗き込んで、「草間さん、やった〜ってよく言いますよね」と若干小馬鹿にしたように言った。
「そうかな?」
 やった〜と喜ぶ昨日の潤を思い出して、ちょっと笑ってしまった。
「そんなに坦々麺楽しみですか?」
「そうそう、早く行こう」
 俺は頷いて席を立った。

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