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観劇メモ:宙組「Hotel Svizra House」

観劇の感想は生モノだから(いきものじゃないよ、なまものの方でお願いします真彩さん)、未来の自分のために「こう思った」をなるべくリアルタイムで書き残そうと思っていたのに、いまだに雪組大千秋楽の余韻が凄まじくて仕方がない。でも、次々と観劇予定を詰め込んでしまったので、容赦なく進まざるを得ないので、慌てて書いておく。


宙組公演「Hotel Svizra House」を観てきました。

雪組でさんざん泣き尽くした後で、そこまで感情ゆるがないかもしれない、という事前の目算はひっくり返りました。物語の筋より作品に込められただろう思い、セリフのひとつひとつにあらわれる願いのようなもので、生の感情を揺さぶられたように思います。

以下、パンフ程度にはネタバレます。


第二次世界大戦中期のスイスが舞台。地続きのヨーロッパで中立国という立場を貫いた同国は、いうても周辺を枢軸国に囲まれていたが故、ドイツ側に武器を輸出したり、ユダヤ人の入国を拒否したり、といった微妙な立ち回りで戦地になるのをギリギリのところで避けていた、というのが史実的な認識。物語上では、そんな中立国であるが故に、枢軸国と連合国がそれぞれに策略を巡らせ、駆け引きを行っている地、として描かれている。

リゾート地のサン・サンモリッツにあるホテルへ、ある密命を帯びた英国のオランダ大使館勤務の外交官・ロベルト(真風)が訪れて――という物語のはじまり。

この地を舞台に暗躍するスパイ「ウィリアム・テル」の正体を特定せよ、という密命を帯びたロベルト。スパイの活動時期との照らし合わせで、怪しいと睨んだのは亡命ロシア貴族 ミハイロフ侯爵が率いるバレエ団。彼らはニジンスキーを支援するためのチャリティーコンサートを行う、という名目でこのホテルへとやってきた。が、その彼らが来た時期と、ウィリアム・テルの通信が確認された時期が重なっている。しかも彼らがこれまで公演してきた地は、狙いすましたかのようにドイツの占領国ばかり。バレエ団の中にウィリアム・テルがいそうだ、さてそれは誰なのか。

というのがおおよその筋。

第二次世界大戦。自らの明日の命に不安を抱き、家族や友人が失われ、生活も脅かされている。その中で芸術という、現代でいえば「不要不急」と名指しされるモノは、決して誰もが必要とするものではない。そう、作中で描かれている環境は、容易に現在を重ね合わせる。そしてこの事態下にこの場所で舞台を見ているわたしたちだから、そこに心を動かされる。

事情があるにせよ、登場人物たちの行動目的は独善的だ。自分が愛するもの「だけ」を守りたい、というエゴ。それにより犠牲になる人がいることを厭わない。エゴの結果、知らず犠牲になった人にも守りたい人がいただろう。だが、それは自分の目の前で起こらない限り、見えないモノとなる。もっといえば、自分が愛するものを優先した結果だから「仕方がない」と考えるのであろう。

物語の中に、自分が愛するものがために他者を犠牲にする判断・行動、「罪」をおかした人は大きく2人。それが自己保身か、あくまでも他者のためか、という差なのだろうか。片方に与えられた赦しは、もう一方には与えられない。でも、他者のためといいながらも、少し考えればその判断基準となっているのはその人自身の感情。両者に本当に差はあるのかな?と思う。そして赦しを与えた判断もまた、判断する側の心理に立脚している。犠牲となった人以外、誰も「絶対的に正しい」判断ができていない。そここそが実に人間的だなぁ、と思う。

その人間臭さに加えて、現代メタとしての物語が面白かった。宝塚を含む舞台芸術の置かれている現状を守りたい、というストレートな叫びが表現されている感。それは、誰しもが共感できるものではない。不要だとする人たちもいて当然だ。

例えばわたしはお酒をほぼ飲まない人なので、酒飲みの心理を理解するのは難しい。居酒屋で狭い場所で顔を突き合わせてマスクもせずに語らい続けるのは、はたして今・ココでなくてはできないことなのだろうか?と考えてしまう。酒を飲むのは家でだってできるじゃない、この場所を守るという大義名分も、実際のところどうなのだろう?やり方間違っているんじゃない?など。理詰めで相手を論破する材料を集めることもできるけれど、その立脚点は「わたしには必要ない」に始まっている。店に行かなければ店が守れない、という犠牲からは目をそらしている。

舞台芸術を必要としない人にとっては、今はみなが我慢している時なのだから我慢すべきだ、という風になるのも、だからわかる。でも、私には必要なものなのだ。劇団ノーミーツのお芝居を面白いと思う一方で、あれは新しい楽しみであって、代替にはなりえないものだと思ったから。だからこそ、登場人物たちの気持ちはひとつも否定するところがない。ただただ、今日も舞台の幕を開けてくれてありがとう、と考えて泣けてくる。

いつか、世界がすっかりとこの事態を過去のこととして思える日に、その時にまたこの舞台を再演して欲しい。その時はどう思い、初見の人はどう受け取るのだろう?って点で面白いと思うから。


あと雑記。

パンフの表紙から、そして先に見た友人からの予告で覚悟はしていましたが、ロベルトがスポットライトをステージの中央で浴びた瞬間に「無理」ってなりました。あんなにスーツとコートが似合う男(※男?)、無理すぎじゃありません??

って思ったら、『歌劇』の座談会で植田先生が着想の時点で真風さんのトレンチコート(の騎士)を想定していて、手のひらの上かよ!!ってなりました。コートやスーツのジャケットの脱ぎ着、そしてネクタイを緩める動作をここまで18禁感あふれる感じに仕立てられる真風さん、いったいどうなっているんですか。

頭脳明晰、鋭いカンを持ち、幼少期の育ちはともかく血筋としての品の良さがにじみ出、優しく、育った環境と磨き培われた芸術を見る目を持つロベルトという人物像。そういったキャラクターが、物語の後半で彼がする選択が少しも不自然に思えない地続き感があって、ステキでした。


あと噂のビリヤードタンゴはヤバかったです。語彙力が消失するヤバさでした。互いを警戒し、疑い、恐れつつも人として認め合っていくシーンの表現としてこの男たちのシーンが必要なのはわかりますが、色気が過剰ではありませんか??? ビリヤードなので球に狙いを定めるために片目をつむったりするわけですが、わたしたちの目には見えない球の延長線上にいたお客様の心臓がしんぱいです。あんなん正面から浴びたら、致死量です。

タバコの吸い方といい、どこか退廃的な色気が凄かった。素敵でした、心からの感謝をこのシーンを作った先生方に贈りたいです。


素敵といえば、ヘルマンとアルマのコンビ!

今回も芹香さんの立ち位置に身もだえしてしまいますが、あの方の眉間のシワの美しさは凄まじいので、「キキさんはこうじゃないと」とついうっかり思ってしまう癖があります。苦悩と苦労をしていて欲しい、現実ではニコニコしていて欲しいけれど!

そしてアルマ。え、このお嬢さん、この前アレクセイやっていた子なの?!嘘でしょう!!という叫び出したいほどにコケティッシュな魅力が満載。パンツスタイルであってさえ、可愛くて色っぽさが際立つのが素敵。話し方も相手と場によって変えていて、けれどアルマが何者かを演じていない時の声に弱さが宿るのがお見事でした。芹香さんとの並びもまた美しく、額装したい。


演技の面では、万里柚美さんの説得力が凄かった。エキセントリックな女性としての演技も、その後に一転、少女のような表情を浮かべる様も、なにひとつ違和感がない。最初の彼女は場にいる(我々観客も含めた)全員に不快な思いをさせる必要があるし、その後の彼女はその負の感情が溶けねばならない。その難しい役どころを、すべてが流れるように繋がって行くのがとても見事だなぁ、と思ってしまった。そうか、専科の方なのか、なるほど……!


他にも桜木のずんちゃんの意味不明なレベルの色気だとか、フィナーレのダンスだとか、潤花さんのクラシカルな雰囲気と真風さんの相性だとか、劇中で使われているバレエ音楽による表現とか、あとバレエといえば客席の拍手と舞台の演技としての拍手がまじりあっていくところの見事さだとか。色々が混ざり合って、見ていて気持ちが良い舞台でした。とりあえずライビュまでに山岸涼子の『牧神の午後』を読もう。