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映画『Coda』は美しい愛の物語なのか_100日後にZINEをつくる、48日目

ヤングケアラーの授業の一環で『Coda あいのうた』を観た。
第94回アカデミー賞で作品賞、助演男優賞、脚色賞の3部門を受賞した作品なのでご存じの方も多いはず。

コーダ(CODA)とはChildren of Deaf Adultsの略称で、耳が聞こえない、または聞こえにくい親のもとで育つ子どものこと。両親ともに、もしくは一方がろう者・難聴者でも、聞こえる子どもはコーダとされる。

https://eleminist.com/article/2773

「海の町で暮らす17歳のルビーは家族の中でたった一人の健聴者であり、耳が聞こえない家族の通訳として家業を手伝っている。『ろう者でありながらも陽気で明るい家族』のケアを背負わされながらも、自分の才能を開花させて夢に向かって歩きはじめる」
このユーモアがちりばめられ、美しい歌声に彩られた映画を好きにならない人がいるのだろうか。魅力的な登場人物が作り出すドラマは、一度観始めたら目が離せない。


しかし、わたしはどうしても考えてしまう。「だれの人生もこのようにカメラを通して切り取れば美しい物語になってしまうのだろうか」と。
もしくは「この物語をただの感動の物語として消費したくない」と。

ルビーには美しい歌声があった。才能を見出してくれる先生がいた。その結果「ヤングケアラー」から抜け出すことができた。しかし、もしあの試験を経て大学に落ちていたとしたら、彼女は家族と共に海に戻ったであろう。
映画ではルビーの才能が外から認められ、家族も次第にそれを応援するようになる、という絵にかいたような感動が描かれる。

この、現実でもフィクションでもおなじみの「子どもの才能を応援する大人たちの善意」を目にするたびに、わたしは応援に値しない子どもたちがいないことにされている美談の残酷さにめまいがする。

そもそもルビーにこれといった才能がなかったらどうだったであろうか。コーダとして学校ではからかいの対象となり、家族からの「お互い助け合いながら生きていくべきだ」という期待に応えて生きていくことを日常とする彼女の姿は容易に目に浮かぶ。人生そのものが家族によって搾取されつづけるのだ。

両親は耳が聞こえないので生活音を配慮することができない。ルビーのボーイフレンドが自宅に来ている時に夫婦は寝室から性行為中の声を響かせる。
映画では夫婦の開き直った態度が笑いを誘うシーンであるが、おそらくルビーにとって親の性行為中の声を聞くことは日常になってしまっており、これが子どもへの性暴力ではなくてなんであろうか。

母親のビリーに対する接し方も気になる。ルビーが生まれたときの聴覚検査において障害がないと知ったときに「分かり合えない気がして心が沈んだ」と語る母親自身が、健常者と障がい者を明確に線引きしている。
続く台詞は「ルビーがしっかり者でとても嬉しいわ」であり、この言葉を受け止めた時のルビーの表情からは家族の期待に応えようとする決心が見える。

この子どものこころの動きこそが、家族からの期待に愛で応えたいと思ってしまうことこそが、「ヤングケアラー」という問題が産み出される根源となる。子どもは容易に家族の期待に応えることに喜びや生きがいをみいだす。
子どもからの家族への愛情を搾取することで家庭を機能させていくことの残酷さが「ヤングケアラー」の大きな問題だ。

五条先生のお言葉を借りれば「愛ほど歪んだ呪いはないよ」である。

『呪術廻戦』0巻1話


健常者であるルビーは家族の中の誰よりも家族の声を聞いている。通訳の役目も負わされているので必然的に懸命に家族の声を聞く。しかし、ルビーの気持ちはほとんど家族に聴かれない。ろう者の彼らは生きるために自分の主張を相手に伝えることにエネルギーを費やしてきたのであろう。しかしそれにより、相手の話を聴くというスキルが欠けてしまっているようにみえる。

ルビーのように魅力あふれる存在になれなくてもいい。
平凡であっていいし、できないことや、苦手なことの方が多くてもいい。
優秀な子どもの進学を応援するだけではなく、すべての子どもが「優秀になれる」環境を平等にもっているのかを考えてほしい。

すべての子どもたちが「自分の人生」の選択に家族の人生を考慮することなく、安心して自分の人生を選択できる社会になってほしい。

「なってほしい」と願っているだけではなくて、大人であるわたしは変えていかないといけないのだ。

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