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幸せになれば幸せなのか_100日後にZINEをつくる、98日目

大好きな人とたくさんおしゃべりできた日。
今の日本には幸せになりたい人も、人を幸せにしたい人も多いよね、って話になる。
誰かの痛みに寄り添うことはできても、誰かを幸せにすることはできないよね。そもそも、その「幸せ」って幸せなんだろうか。

どうしても自分にはしっくりこない。
幸せになりたい人が掴んだハッピーで、その人は本当に幸せになるのか。

「人を幸せにしたい」を目標にかかげて日々努力している人の設定する最終到達点が、「一億円と時間的余裕」だったのを目にしたときの、この気持ちはなんだろう。

以前、ハッピーとラッキーはゾンビ量産装置になることを考えたけれど、ならば一体わたしにとっての「幸せ」はとはなんなんだ。

「幸せになれます」の魔法をかけてもらうためにお金や自分を差し出す人。
彼らは確かにその瞬間に「幸せになる」のだと思う。

現在よりも、よりよくなっていく未来が明確に見えたときに、人は間違いなく幸せになる。
受験を乗り越えて、もう徹夜で勉強しなくていい!という解放感。
念願の企業に就職し、ここから自分の未来が切り開けていくであろうという期待。
大金を手にして、これで好きなことが何でもできる、お金のための辛い労働から解放された、という安心。

ハッピーセミナーは、そういった未来の自分への「期待」をもたらしてくれる。
ハッピーな状態により日常のラッキーに目が向くようになれば、ハッピーとラッキーの無限ループでずっとハッピー!よりハッピー!一生ハッピー!!
んなわけあるかいっ!

受験を終えても進学先での勉強が待っている。
入社した所から社会人としての試練の日々が待ってる。
お金をひとたび手にすれば、減ること、失うことが怖くなる。

ハッピーという大きなナラティブが自分を高揚感で包み、ハッピーに背中を押されて足を進めると次第に足は地面から離れていく。
地に足がついていない歩みは、地面との距離が開いた時ほど衝撃が大きい。
もといた場所に戻っただけなのに、一度天に近づいてしまった身体は、ただの地面を地の底だとかんちがいしてしまうこともある。
こんな不幸があるだろうか。

一度ハッピーを知ってしまうと、ハッピーを失うことが怖くなる。
ハッピーを大きくすることに努力して、手に余ったハッピーと向き合うと湧いてくる虚しさを埋めるためにもっと多くのハッピーを求める。

どこぞの社長さんでお金配りおじさんもいたけれど、持ちきれないハッピーは周りに配り、「自分のもっているハッピーは他人も幸せにする良いものだ」という価値の再確認をする。

自然派志向のエコハッピーさんたちも「お金に依存しない」「お金がなくても豊かに暮らす」を掲げる。人と人とのつながりがあれば、助け合いと支え合いでお金がなくても暮らしていけますよ。ただし、皆に嫌われないように、主体的に奉仕の精神でコミュニティにコミットし、暴飲暴食せず粗食で1日2食。

欲望開放系ハッピーさんも、ストイックな目標達成ハッピーさんも、ナチュラル志向ハッピーさんも、「幸せ」が「お金」と強く結びついていることは事実。お金を拝むか、お金にそっぽ向くかの違いだけ。そこに金がある。

みんな言うのに。
「お金がないのは不幸だけど、お金があっても幸せじゃない。」
その通りだと思う。
お金が人を幸せにするのではなく「お金が見せてくれる未来への期待」で人は幸せを感じることができる。
「このお金で何をしようか。映画を観ようか。美味しいものを食べようか。長い休みをとって旅行に行こうか。」

お金がないことの一番の不幸は「安心」がないこと。
今日食べるものがない。ライフラインが止まってしまうかもしれない。家に住んでいられなくなるかもしれない。
お金があっても、心や身体が痛みにさらされるとき。苦痛に終わりが見えないとき。
命を脅かす不安や恐怖は、人を不幸にする。

ここで不幸から命を救うのは、ハッピーやラッキーではない。
今、自分が生きていることを信じることしかないじゃないか。
心臓が動いていればいいだなんて、身も蓋もない当り前のことだけど。
でも命を確信することで、安心して不幸に身をゆだねてみたり、不幸に立ち向かえるようになる。

幸せとは、「      」である。
「 」に入る言葉は千差万別。

幸せと不幸は共存できる。

   」



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