慈悲に群がる鳩をうとましく思う_100日後にZINEをつくる、37日目
肌寒い天気の悪い日は家の中にいるとどんどん身体が固まっていくから、サンドイッチをつくって近所の河川敷でお昼をたべる。
薄曇りのどんよりした空を映した川は、普段より人もいなくてちゃんと独りになれる。
毎回「食べながら読書」のつもりで行くのに、だいたい読まずに帰ってくる。
カメとか鴨とか知らない生き物やら他人が行きかう場所で、孤独に自分のつくったいつもの味をしみじみ噛みしめていると、あっという間に時間が過ぎる。
本を開かなくても、川やら鳥やら魚やらがわたしを消してくれるのでリセットできるからに違いない。
手ごろな石に座ってもしゃもしゃ食べていると鳩が一羽、地面をつつきながら歩き回っているのに気づく。
わたしは、パンくずを投げて鳩に施しを与えることで絆を結ぼうと思う。
投げる、食べる
投げる、食べる
「こんな日に食べるパンはいつもより慈悲深い味がするね」
が、一羽に何か与えると当然のごとく次々に仲間が降り立つ。
くるっく(今あなたくれましたよね?)
くるっくう(与える人間ですよね?)
(お恵みを~)くるっくう!(お恵みを~)くるっくう!
気づけばハトの大群に囲まれていて、とんでもなく不快な気分になっている。
慈悲深き者から乱暴者に豹変したわたしは、足をじたばたさせて四方八方に奴らを追い払う。
粘り強く飛び立たない数羽の鳩が(あなたはくれる人間だったじゃないか!)という視線を投げかけてくるのを無視して、むしゃむしゃ残りのサンドイッチを食べる。
コーヒーもごくごく飲む。
すでにわたしは鳩に対して「図々しい奴らめ」という気持ちを抱いている。
最初の鳩にパンくずを投げ与えたわたしはどこに消えたんだろうか。
「与える自分」が「たかられているわたし」に変化した境目はどこにあったんだろう。
鳩の、ただ食料を求める行動を「わたしに食べ物をねだる行為」だとみなした瞬間がたしかにあったはずなのに、わたしはそれに気づかない。
一羽にあげたらきりがないから!
全てのお腹を満たせるわけじゃないんだから!
助けられないくせに、中途半端な施しは無責任!
誰しも一度は聞く正論ですね。
でもやっぱり、「鳩のためにならない」なんて、追い払うための言い訳だ。
鳩のためかどうかなんて関係なく、わたしから歩み寄り一方的に不快になったのだから。
鳩が何羽までだったら、わたしは慈悲深くいられたんだろう
と考えながら家まで歩いた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?