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コミュニティにいられない_100日後にZINEをつくる、97日目

311で人生最大の不安を味わい、そこから陰謀論、マクロビ、ヴィーガン、自然派、極左からナショナリズムと振り子の振れるままにあちこち歩き回った。
あの、真っ暗闇のなかで唯一の答えを見つけたときの安心感。確信がもたらす快感と、腹の底から力がみなぎる感覚は何ものにも代えがたいものだ。

しかし、非常に残念なことにわたしは「確信」が持続しない。
どの界隈においても、座ろうとすると違和感が尻をチクチク突き、結局その場所から退場してしまう。

コロナ禍に入って以降は、家にいながらオンラインで繋がることが容易になった。相変わらず尻を落ち着けられる場所を求めていたわたしは、「自分が変わる期待」をゾンビのように握りしめて、コミュニティの扉をいくつも開いてみた。

コミュニティには必ず、創始者がいる。
対等と平等をかかげている場でも例外なく「こうありたい」という願いと共にその場をつくった人がいる。
そして望む望まずに関わらず、その場においては創始者がカリスマとなる。その求心力によってコミュニティ内の安心が保たれる。

けれども、カリスマが「答えを知っているふるまい」をしたり、周囲の人間の「カリスマに答え仰ぐ姿」を目にした途端、その違和感がチクチク自分を刺しはじめる。
ルールのある/なしではない。
ルールの解釈をする権利が、1人にゆだねられている「場」では安心して居られない。

先日わたしの尊敬する人が、あるコミュニティ運営者と対談している動画を観た。尊敬する人が「とてもよい取り組みだよね」というのであれば「いいのかも!」と思い、そのエコヴィレッジを覗きにいった。

わたし自身「豊かに暮らすのに必要なのはお金じゃない、人と人とのつながりである」という考え方にはとても賛同するので、そんな場所で生きていくのもいいなあと思ったのだ。

「移住希望の方へ」のページを読んでみると、注意書きが目に入る。

「やりたいこと」ではなく、「求められていること」に謙虚に誠実に答えていく姿勢を何よりも大切にしているため、自分の好きなように、好きなことをやりたいという方には向いていません。

その下に【ビレッジの基準 チェック項目】が記載されていた。

・ビジョンを持っている(目指す方向と計画を更新し続ける)
・人格とスキルを磨き続ける姿勢がある(約束を守ることができる)
・地域や仲間に貢献したいと思っている(地域からの頼まれごとに協力的である)
・スピード感のあるやりとりができる(ビレッジの平均年齢は28歳です)
・自営業を目指している(CCJのプロジェクト責任者も経験してください)
・資料作成(パワポ・ワード・エクセル)に取り組むことができる
・共同生活を楽しむことができる(シェアハウスで、人との出会いも多い生活です)
・健康に興味があり、健康的なライフスタイルに取り組む(1日2食・咀嚼など)
・地球環境や社会問題に対して、何らかの取り組みをしたいと考えている
・『パズるの法則』『今日が生き方を変える その日です。〜新しい生き方を考えるための8つのステップ〜』を読んでいる

注文の多い料理店かっ!
金のかわりに求められるものが多すぎて笑ってしまった。

コミュニティへの入会に、「大金を求めること」と「基準を満たす自分を差し出すように要求すること」、どちらがより残酷なのか。

そろそろ40になる自分は、入村したら「のろま」と呼ばれるんだろうか。
良くないふるまいをしてしまったら、「本を読みなおしなさい」と怒られたりするんだろうか。

現実には多くの人を幸福にしているであろう創始者に対して非常に失礼なことは承知しつつも、思わず架空の『エコヴィレッジホラー』なるものの脚本パターンをいくつも考えてしまう。(善良な若者がカルト化するエコビレッジに入村し脱人間化していくパターンと、善なるヴィレッジに現代毒を凝縮させた人間が入村し、村をパニックに陥れるパターン、どっちがより恐怖かしら)

やはり性格の悪いわたしが、心身を捧げて安心することのできるコミュニティは存在しないのか。

では自分が創始者になれば満足できるのかと問われ、考える。

そもそも。
創始者の袖の下に集まる賛同者、信者の上に立つ教祖、という構造に同意できないのだ。

『天は人の上に人をつくらず』の世界を生きてしまっている人間にとって、他人より多く敬われるべき人間は存在しない。

自分の幸せを自分以外の人間が知っている訳がないと信じて疑わないわたしは、他人の幸せを知っていると自分が思ってしまった瞬間にアイデンティティが崩れる。というジレンマ。

人が人を教え「導く」仕組みについて納得できるロジックがあれば、だれか教えてほしい。

神を必要とする心はわたしの中にも存在するけれど、この地球上で特定の人間が「超越的存在」になることはどうしても想像できない。

自然と調和して生きることの体現者としてコミュニティを率いる人と、国民に戦を強いることのできる指導者と、賢く稼ぐことが幸せへの道だと説くカリスマ投資家と、彼らの命をとりだして机に並べたら何が違うんだろう。

そして、彼らの命とわたしの命はどこが違うんだろう。

わたしが確信できるのは、いつだって同じ視線を向け続けてくれるお猫様たちだけなのかもしれない。




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