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楽になる_100日後にZINEをつくる、77日目

年が明けて早8日。
すっかり頭のネジが緩んでいる。が、しばらく意識してこのモードを持続させたい。

ここ数年「苦手なことにこそチャレンジする」をモットーにして、あれこれしてきた。人生において一番真摯に自分と向き合った時期だったかもしれない。それは自分にとって非常に大きな自信になった。知らない世界を知れば知るほど、自分の無知や視野の狭さを実感し、いい意味で「わたしがどう足掻いたって、たいそうなモンにはなれんよ」と、諦めることができた。

今以上の自分なんていなかった

自分の手札にはない選択肢を提示され、緊張を乗り越えて体験し、ひとつずつ選択肢が増えていくことはものすごく楽しい。達成感から得られる「日々を無駄にせず生きている感じ」には中毒性があって、「もっとできるよな、自分!」「まだまだいけるぜ!」みたいなスポ根モードに入りやすい。

けれど。そのスイッチをONにし続けると、自分にとって何が「楽な状態」なのかが、すとんと、わからなくなってしまう。

昨年、特に後半はずっと心が忙しなかった。それでも「外的要因で、内面の充実を犠牲にしてなるものか」と、自分にとっての楽しいことを手放さなかった。次第に、新しいタスクとか、想定外の出来事とか、なんなら自分が新たにやりたいと思ったことに対してまで、苛々がつきまとうようになった。

ずいぶん長いこと勘違いをしていたが、自分のキャパは伸び縮みする皮みたいなものではなく、限界がくれば割れる土瓶のようなものだった。ががーん

水量、水質の調整はできても、自力で川底を変化させることは不可能なのでは

楽しい、と、楽。
同じ漢字でも、同じ状態ではない。エネルギー量の少ない自分は、楽=余白のある状態でなければ、「ただ楽しむ」ということができなくなる。

12月は「年末年始はゆっくりする」を合言葉に、ネジをきりきり巻いて忙しさをこなした。心の重荷になっていた最後のタスクを元旦に終わらせたら、急に気持ちがすこーんと楽になった。ぽかんとしてはじめて、それまでどれだけ余裕がなかったかに気づく。余裕がないときの頼まれごと程、断る理由を考えたり、したくない自分を見る余裕がないため、割と二つ返事で引き受けてしまう。

コロナ禍でオンラインデビューしてから、読書会とか、自分の才能とか、聴くとか、対話とか、学びとか、新しいコミュニティに飛び込むと面白いことが無限に増える。あれを読みたい!これが観たい!あれも聴きたい!が、いつも自分のなかでぎゅうぎゅうになっていて、常に「〜したい」に追われる。脳の中で「あれもこれも消化しなきゃ」となっている状態で、目の前の作品だけに集中することは不可能。自分がいつも自分を焦らせる。

「楽しいと、面白いと、達成感と、充実感、に満たされたわたしは何を得るのか。」この問いを抱えはじめた時点できっと、自分はすでに「楽しい」に満足していた。楽しく過ごすことよりも「楽な状態でいることの安心感」の方がわたしは幸せなんだなあ。不幸の数と同様に、幸せのカタチだって千差万別。

『なんにもしなくてもいいし、なにをしてもいい』
結局これが全てだった。

楽でいられるための1番の近道。
ためになる/ならない、有意義/無意味、損/得、二項軸判断ゲームからはもう降りる。

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