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映画『バービー』とフェミニズムへの悪口_100日後にZINEをつくる、84日目

映画『バービー』を子どもと一緒に観る。
フェミニズム作品として観ていない子どもたちは、バービーランドの残酷さも、ケンの愚かさも、マテル社のポンコツおじさんたちも、コメディとして素直り受け取り、げらげら笑って楽しむ。

フェミニズム作品として受容したわたしは、「この主張は何?」「これはエンパワメント?皮肉??」「バービーランドのマイノリティとは」と眉間にしわが寄ってしまい、作品と対峙している気分になる。
「この部分、すごくいいと感じるけど、でもこれが反転であるとすれば、わたしが肯定しているのはつまり・・・」なんて、とにかく考え出したら小難しくなりすぎる、そんな作品だった。

女を生きてきた期間が長ければ長い程「フェミニズム」を素直に受け取るって、すごく困難だ。

フェミニズムをインストールした人を「進んでる」と表現することに強い違和感がある。
フェミに限らず、気づきを「目覚め」と表現することはよくあるが、別にそれまでぐーぐー寝ていたわけじゃない。しんどくても歯をくいしばって耐えたり、苦しさと生きていくために知恵を駆使して、生きてきたのだ、みんな。

90を越える母方の祖母は、毎晩酒を飲んで暴れる祖父と喧嘩をしながらも、三人の娘を育て、自身も働いて家計を支えた。当時は、夫に耐えられずに実家へ帰っても「一度嫁げば戻ってくるな。夫を支えてこそ妻。」と追い返される時代。わたしの夫に対する物言いに対して、「今は昔と違うんだよね」と自分に言い聞かせるように繰り返し言う祖母。
彼女が「古い考えの、遅れている女性」ではない。

抗うことが「正義」になると、抗わない人間は「悪」とされる。
『バービー』における「洗脳を解く」シーンの、なんとパターナリズム臭あふれることか。父権主義は「男社会」のものではなく、権力のある所に必ず存在する。

「女だけが家事や育児を引き受ける必要はない、男にも分担させるべき」というメッセージは、家庭に拘束されたくない女性にとってのエンパワメントになる。同時に、「分担させない」「分担させることができない」女性へは、非難や圧力になる。

「そのくらい夫に自分でさせなよ」という一言は、「夫のYシャツにアイロンくらいかけてあげなよ」という一言と変わらない。

フェミニズムをハンマーとして振り下ろしていい訳がない。
フェミニズムが『動物農場』になってはいけない。

フェミニズムにおける「男のために着飾るべからず」「女性も性を主体的に謳歌せよ」「ありのままの自分を好きになろう」という主張も苦手。

推しのライブに行くときは、着飾りたい。
謳歌するほど性に興味がない。
嫌いなものを好きになれないことを非難されるほどの苦痛はない。

フェムテックの台頭と共に登場するようになった「セルフプレジャー」や「セクシャルウェルネス」という単語たち。とても重要なことだし、だれでも罪悪感や恥を感じることなく自分の身体と向き合えるようになれたらいい。
でも「大事なことだよ!もったいない!ちゃんと自分の身体と向き合ってみて!!」と強く腕を引っ張られると、「ほっとけ!」と、その手を振りほどきたくなる。

「家族の幸せが私の幸せ」
「専業主婦になりたい」
「女らしくありたい」

これらの発言に向けられる、フェミニズムからの軽蔑と憐みのまなざし。
「あなたたちみたいな女のせいでフェミニズムは足をひっぱられてきた」という発言に対しては、毎回怒りが湧く。
そんなインセルみたいなフェミニズムはいらない。

自分が生きるための金は自分で稼ぐ。主体的に。謙遜しない。男にも社会にも忖度せず、自分のために生きること。自分の人生を誰にも搾取させない。

そうありたいと望む人が、全員そう生きていけたらいい。

流行に乗ることを楽しむ人もいれば、自分の好きを変化させたくない人もいる。「同じ」に安心する人も、「同じ」が嫌な人も、「同じ」だろうがなんだろうが気にしない人もいる。家事を分担したい人もいれば、自分の納得のいく方法で家中を掃除したい人もいる。

誰も他人に「〇〇してみたらいいのに、」「知らないなんてもったいない」なんて口をだす権利はない。
フェミニズムは自分のために使う。

わたしがこの世で一番信用できないのは、「答えを知っている」人間。
「分かった!」「答えを知った!」と思っている時の自分が何より信用できないことを、40年かけて学んできた。

常に変化していく社会の中で、心も身体も変化していく自分を抱えて、答えにたどりつくことなんてできる訳がないのに。余裕がない時ほど、答えが欲しくなるし、結論を出してすっきりしたくなる。

でも、思い知ることしかできないのだ。

そうだったのか。
そうではなかったのか。
そうだと思っていたのに。

そうやってわたしはフェミニズムを葛藤しながら、フェミニストとして生きていく。

バービーランドのように「弱者女性」という概念が誕生する未来がこないことを願いながら。


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