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『悪は存在しない』(2024)流れの断絶

OPから驚かされた。タイトルロゴと音楽、ゴダールではないか。
これは追悼なのか?いや宣言と受け取るべきか。今思えば既に『パッション』(1982)というゴダールの映画がありながら自身の藝大での修了作品に『PASSION』(2008)と名付けている時点で宣言はなされていたのかもしれない。映画自らが映画史という大きな流れの中にあることを自覚しつつ、意図的に流れから離脱するという宣言。その宣言通り濱口竜介は〈断絶〉の映画を遊戯的に作り上げた。映画の制作プロセスそのものに偶然性を求めることによって。

「ゴダール宣言」の後、木々の間を抜けていく長回しのトラッキングショットがスタッフクレジットによって断絶される。〈リズム〉と〈断絶〉。自ら生み出した流れを自ら止める。止めた時に起こる衝突によって生じる新しい流れを捉えるために。〈リズム〉を〈断絶〉することで自身の想像しえなかった新たな〈リズム〉を創造する試みが繰り返される。

この〈リズム〉は全てのものに宿る。それが世界に存在し始めてからの積み重ねである記憶によって〈リズム〉が形成される。その物質、その身体が持つ独自の〈リズム〉。人間の動作や声が分かりやすいだろう。濱口竜介は過去の作品で演者の身体に〈リズム〉、すなわち記憶を独自の本読みやサブテキストによって創造してきた監督である。
薪が割られ、水が汲み上げられ、羽は抜け落ち、〈断絶〉される。そして、火に焚べられ、身体に取り込まれ、楽器になり、新たな〈リズム〉を形成する。断片が繋がれ、流れが生み出される。

幼稚園では身体を固定せんとする子供達たちが映し出される。だるまさんがころんだ。言語的〈リズム〉に身体的〈リズム〉が断絶される遊戯。いつ、どこで止めるかは鬼に委ねられ、言語によって強制的に止められた身体が衝突する。

森の中では木々によって身体が分断されるがカメラの運動によって流れが維持され、連なっていく。巧は花を見つけ、肩車する。身体と身体の接続による新たな〈リズム〉の創造。

それぞれが役割を演じようという説明会によってグランピング施設の建設計画が明らかになる。誰も賛成でも反対でもない。AとBの折衷案としてのCを出すのではなく、AもBも止め、ただ保留にしてしまう。この保留によって生まれる曖昧さが画面を支配する。

会社でのオンライン会議。フレームとフレームが拮抗し、物理的な距離以上の距離が横たわる。Web会議の画面に映る者は現実としてそこにはなく、ただ空虚な現実の模倣としてあり、ゴダールが『勝手にしやがれ』で繰り返したように模倣と現実を挑発的に比較させる。モニターに映る彼らよりも侵入する紙の方が確からしさをもつのではないか?。この『悪は存在しない』という映画自体がゴダールの模倣として終始観客への挑発的問いかけを続けている。

車はカメラ同様に流れを生み出す。閉鎖空間によって直接的ではないが身体と身体が擬似的に接続され新たなリズムを生み出していく。ナビゲーションアプリを分断するマッチングアプリの通知もまた笑いというリズムの創造に寄与している。
高橋は薪をうまく割ることができない。すなわち断絶によってリズムを生み出すことができない者である。
グローブジャングルの回転はフレームによって切り取られる。見えているのは一部だが、運動によって全容が想像される。
黛は木で手のひらを切る。傷から血が流れ出す。断絶による流れの創造。彼女は土地が持つ〈リズム〉の中に取り込まれていく。

『東への道』、『ミツバチのささやき』の主人公たちアナを連想する花(H Ana)の失踪と捜索。個々の光が連なることなく収まるべき場所を模索している。ただ懐中電灯の光は『牯嶺街少年殺人事件』のような孤独な光ではなく、奇妙な連帯感を伴って動いている。

太陽の光は木々によって断絶され、車(=カメラ)によって接続されることで〈リズム〉が生み出される。
巧による奇襲。だるまさんがころんだが繰り返される。振り返ることができない者には分断も許されない。切断が流れを生み出す。

フレームによって、また物語という枠組みによって今まで堰き止められていた〈リズム〉が溢れ出し観客を飲み込んでいく。その〈リズム〉に身を任せるのか、抗うのかは我々委ねられている。

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