「階段アート」

おはようございます。numaです。

本日はちょっと長めの作品を書いてみました。

お時間ある方は、ぜひ読んでみてください。


「階段アート」

 長い前髪が目にかかって、相手が発射した銃弾がよく見えなかった。コントローラーの不快な振動とともに、画面全体が赤い点滅を始める。アイテムボックスを開いたが、生憎、回復薬は持ち合わせていない。極限までスローダウンした歩行ペースでその場を離れようとすると、相手はすかさず2発目の銃弾を撃ち込んできた。あっけなく弾丸の餌食となり、本日10回目のゲームオーバー。そろそろ髪を切りに出掛けないといけないな……と、憂鬱な気分になりながら、山田タカシはゲーム機の電源を切ってそのまま仰向けに寝転がった。

 平日の昼間から仕事にも行かず、24歳の男がこうしてゲームに興じることができるのは、彼が紛れもないニートだからである。

 高校時代、シングルマザーだった母を事故で亡くし、祖父母に引き取られて東京から大阪に引っ越して以来ほとんどを家の中で過ごし、こうして今日もオンラインゲームに勤しんでいる。

 こんな生活、だめだってことは自分自身分かっている。しかし、かれこれ8年近くも引きこもり生活を続けていたら、人との接し方も社会との接し方も最早分からなくなってしまっていた。

「タカシ、開けるよ」
 か細い声が部屋の外から聞こえてきた。タカシの祖母である山田数子だ。
「今、松田中学校から連絡があったんだけど……櫻井先生、お亡くなりになったって」
 松田中学校とは、タカシが通っていた中学校のことである。そして櫻井先生は、タカシにとってとても大切な人物の一人だった。
「え、櫻井先生が……」
 普段、ほとんど言葉を発さないタカシの一言に虚をつかれたのか、少しの沈黙の後で数子が再び口を開いた。
「お葬式に参加してほしいって連絡が来ているよ」
 数子はそう言うと、静かに部屋の扉を閉じて去っていった。

 中学時代、タカシは同級生の3人組から酷いいじめを受けていた。毎日暴言、暴力の繰り返しで、当時の彼は学校に行くのが憂鬱で仕方なかった。

 そんな時、タカシを助けたのが櫻井先生だった。他の教師が面倒ごとを避け見て見ぬふりをする中、数学教師であった櫻井先生がいじめの現場を目撃し、いじめを行っていた者たちをこっぴどく叱ってやった。彼はさらに、いじめを見て見ぬ振りしていた教師たちも弾劾し、彼らのいじめに対する考えの甘さを指摘した。その後は櫻井先生がタカシのボディーガード的な存在になり、常にタカシの周辺に気を配ってくれたおかげで、酷かったいじめは収束していった。まさしく、タカシにとって櫻井先生は恩師である。

 自分の人生で数少ない大切な人。そんな人物が亡くなったのならば、葬式に出席してちゃんとお別れを言わないと。実はタカシには、母が亡くなった際、悲しみのあまり葬式に出席することができなかったという過去があった。だからこそ、今回ばかりはしっかり出席したい気持ちがある。家をほとんど出ないタカシにとって、それはとてつもない勇気を要する課題であったが、櫻井先生の死は彼に強い衝撃を与え、それが彼の背中を押す材料となった。

 2日後、祖父の喪服に身を包んだタカシは、東京で執り行われる櫻井先生の葬式に出席していた。櫻井先生の人望の厚さを表すように、老若男女数多くの人の姿が見える。人との関わりを避けてきたタカシにとって、人が溢れかえるような環境は辛かったが、これだけ人が多いと中学時代の同級生に見つかる心配が少なく、むしろ少し安心した。いじめがなくなったとはいえ、今でもあの時の傷は完全には癒えていない。当時自分をいじめていたクラスメイトに再会するようなことがあったら耐えられる自信がなかった。

 式が進み、火葬前に櫻井先生との最後の対面に移ることになった。久しぶりの再会。タカシにとっては8年ぶりの櫻井先生。少し緊張しながら棺の中を覗き込んだ。

 綺麗に死化粧された櫻井先生の顔が見えた。当時丸々と太っていた櫻井先生の面影はそこにはなく、痩せてシワも増え、明らかにあの時よりも老けている櫻井先生がそこにいた。

 もう8年も経ったんだ。櫻井先生の顔を見た瞬間、タカシは自分が過ごしてきた時間の重さに押しつぶされた。家から一歩も出ず、仕事もせず、祖父母には迷惑をかけっぱなし。気づいたらとてつもなく長い時間が流れてしまっていた。

 周りを見渡すと、その場にいる全員が自分より格上の人間に見えた。恐らく、自分と同じニートはこの場にはいない。なんだか急にそこに立っているのが恥ずかしくなってきた。

 やっぱり帰ろう。式はまだ終わっていないが、最後に櫻井先生の顔を見ることもできた。ここに長居する理由はない。タカシが足早にその場を後にしようとしたその時だった。

「もしかして、山田くん?」
 背後から突然声をかけられた。タカシが振り向くと、そこに立っていたのは初老の女性だった。
「そう……ですけど」
「ああ! やっぱり。主人が写真を見せてくれたことがあったから……。突然声をかけてごめんなさいね。私は櫻井道彦の妻です」
「あ……どうも」
 祖父母以外の人と話したのは何年ぶりだろうか。タカシは緊張で声を震わせながら必死にそう答えた。

「今日は主人のために遠くから来てくれてありがとう」
「あ……いや、そんな……」
 目を合わせることができない。タカシは8年前よりコミュニケーションを取るのが下手になっている自分に恥じらいを覚えた。やっぱり自分はダメ人間だ。そんなことを考えた。

「今日、あなたに会えたらどうしても伝えたいことがあってね。会えてよかった」
 冷や汗が止まらないタカシを前に、櫻井夫人は穏やかな口調で続けた。
「伝えたいこと?」
「ええ。主人は生前ずっと、あなたのことを気にしていたのよ」
「ああ……」
 それはタカシも知っていた。実はタカシが母親の死でショックを受け、高校に通わなくなってしまったという話を聞いた櫻井先生は、彼の元に何度も直筆で手紙を送っていたのだ。タカシを励ます手紙や、心配する手紙。しかしタカシはそれに対して一度も返答することはなかった。

「いつもあなたのことを心配していたわ。『タカシは繊細なやつだから、辛いことがあったら人より立ち直るのに時間がかかる』って。『だから俺が励ましてやらないとダメなんだ』って」
 タカシが櫻井先生の手紙に返事を書かなかったのは、今の自分の状況を櫻井先生に知らせることはできないと思ったからだ。これ以上心配をかけることはできないと思った。しかしむしろそれが櫻井先生の心配を煽ってしまっていたのであろう。手紙は毎月必ず送られて来た。

「1ヶ月前、主人が突然倒れて、意識がないまま入院することになったの。結局、亡くなる前日まで意識は戻らなかったんだけど、意識が戻ったその時にね、とってもわずかな時間だったんだけど、その時に、あの人がこう言ったの。『タカシは大丈夫かな』って」
「そんな……」
 死の直前まで櫻井先生は自分のことを心配していたのか。タカシの心に急激な罪悪感が湧き上がってきた。なぜ自分は手紙に返答しなかったのだろう。

「それが主人の最期の言葉だった。正直嫉妬したわ。最期にあの人から出た言葉が私じゃなくてあなたのことだったなんて。それくらい、あの人にとってあなたは特別な存在だったのよ」

 櫻井夫人の表情は複雑だった。最期まで自分の夫に心配をかけ続けたタカシに対する恨み、妬み、しかし教師としての夫を生かし続けてくれた生徒への感謝、色々な感情が入り混じった、そんな表情だった。
「あなたは今、幸せ?」

 葬式からの帰り道、タカシの胸中は晴れなかった。まさか櫻井先生の最期の言葉が自分に向けられた心配だったなんて。中学時代、自分のことを助けてくれた恩人である櫻井先生に迷惑をかけ続けてしまっていた自分に嫌気がさした。
薄暗い中を駅に向かって下を向きながら歩く道中。外灯に照らされた10段ほどの階段が目に入った時、タカシはハッと、あることを思い出した。

 中学時代、絵を描くことが趣味だったタカシは、ある時、櫻井先生に誘われてこの階段の前にやってきた。そこで櫻井先生と一緒に描いたのが、階段アートだった。

 階段アートとは、階段のたて面に絵を描いたもので、それぞれの面に描いた絵がつながり、遠くから見ると一つの大きな絵が完成する。櫻井先生は、区で募集していた階段アートの仕事を引き受け、その手伝いとしてタカシを連れてきたのだ。タカシと一緒に階段アートを完成させることで、彼に一つの大きな作品を作り上げたという自信を持ってもらいたいという思いからだった。二人は放課後毎日集まって作業を進め、1週間で10段の階段アートを完成させた。

 その階段が、今タカシの目の前にある。長い年月風にさらされ、多くの通行人が通った階段の表面はボロボロと崩れ落ち、今ではほとんどペンキが落ちてしまっていた。しかし、タカシの頭の中には、あの時の美しい階段アートのイメージが残っていた。

 気付くと、タカシは走り出していた。駅とは逆方向に、全速力で。ホームセンターでペンキを買い、急いでその階段に戻ってきた。タカシは無我夢中で、階段のたて面にペンキを塗り始めた。たまに通る会社帰りのサラリーマンの視線も、タカシには気にならなかった。自分の世界に入り込み、鮮やかな色のペンキを染み込ませたハケを動かし続ける。

 1段目が描き終わると、すぐさま2段目に取り掛かった。下から順番に、3段、4段と描き続けていく。一歩ずつ階段を上っていくタカシは、暗い地の底から明るい空に手を伸ばし、這い上がっていくような感覚を感じていた。6段、7段、8段……階数が上がっていく。

 この8年、世界から目を逸らし、全ての人間と関わりを絶って生活してきた。しかし、そんな自分のことを気にかけ、ずっと繋がりを保ってくれた人たちがいた。引き取ってくれた祖父母、そして櫻井先生……。櫻井夫人に聞かれた、幸せかという問いに答えるとしたら、確かに自分は幸せ者だった。それに気付かされた。

 どれくらい時間が経っただろうか。殺風景だった階段が鮮やかに彩られ輝きを放っていた。この8年で色を失い、ただポツンとそこにあった階段が色を取り戻した。そしてそれは、タカシの心も同様だった。

 駅までの足取りは軽かった。階段アートを一気に描きあげて疲れ切っているはずの身体は、不思議と祖父母の家を出たあの瞬間よりも元気だった。しっかり生きよう。終電ギリギリであることに気付き、早歩きを始めながらタカシはそう心に誓った。 


「なんだこれ?」
 高校生が一人、呟いた。
「こんなの昨日までなかったよな」
 もう一人がそれに呼応する。

 彼らはとある階段の前に立ち尽くしていた。昨日まで何も描かれていなかったはずの階段に絵が描かれている。
「てか、この絵なんだよ」
「それな」
 彼らの目の前には、多数の人間が手をつなぎ合う絵が描かれていた。

「下手くそだな、これ」
「絶対プロじゃないよ、いたずらだよ」
「でも、なんか……いいよな」
「うん……なんでだろう。なんか……あったかい」

 お世辞にも上手とは言えないその絵は、しかし、確かに何かエネルギーのようなものを持っていて、温かいオーラに包まれていた。


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