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人間、涙もろくてもいいじゃない

「大人だから泣くんじゃない」

この言葉、発したことが無くとも心のどこかでは思っている人も多いのではないだろうか?

むしろ私は演技でないなら泣いてもいいと思う。

泣くにしても2つに分類ができる。一つはシトシトと涙を目から溢れさせるパターン。もう一つは嗚咽を混じれて泣くパターン。

実は、私はかなり涙もろい。ほとんど前者のように泣いている。嗚咽を混じれて泣くときは大体、悲鳴を上げたりするようなケガをした際や精神的に参ってる時に涙が出るパターンが多い。

今回は、その2つ泣き方の話だ。

人間、大人になってからシトシトと涙を流すときの多くは良い話に遭遇したやショックな出来事が発生した時、絶景を見た時など各人の心理が動いたときで「感動」と表せる時だ。

感動というと「良いものに出会ったときにおこる」と思われるが違うと私は考える。良くも悪くも深く記憶に残り深く感じ取ることを感動だと感じる。つまり、心に深く残る出来事だと涙が出るのだ。

実際に、何か注意を受けたりなどでシトシトと涙が出てきた内容は深く覚えている。さらにその後の行動や物の見方も大きく変わっている。まさしく「感動したんだな」と実感ができるような状態だ。もちろん、心温まる本や劇、言動などで涙を流したこともよく覚えている。

逆に、嗚咽を混じれて泣いた内容は全くと言っていいほど思えていない。覚えても精神的に辛かったなどという話しか思い出せない。

私事ながら一時的に鬱病の経験もあり、ここまで話した2つのパターンを病の時に経験しているが、同じ注意でもシトシトと自然に涙を流した時の内容は深く覚えており、注意というマイナスの要素であっても良い意味でポジティブにとらえられた。

対して、嗚咽交じりのパターンであると内容が思い出せず、ただ理不尽であったり人格否定をされているような内容であった記憶しかない。

つまり、どういった泣き方であっても頭ではわかっていない自身の本能を映し出しているのではないだろうかと考える。

シトシトと涙が溢れたのであれば今、目の前で起きていることから人生の糧を見つけて脳が処理するために流していると思えばいい。逆に嗚咽を混じれる場合は少しその場から精神的にも物理的にも距離を取ることをおススメする。精神的に舞いってしまってからでは元に戻すのは困難である。嗚咽交じりの涙は最後の脳からの信号ではないだろうか?

ここまで1人称視点として本人の対処法で書いたが対人に関してもである。

会話や説教のタイミングで泣いている人を茶化したり、自身のメンツを気にして「泣かしてしまう人」というレッテルを取り除くために涙を堪えるように言う人もいるがすでに脳がどちらかのパターンで深く感じているので混乱しもっとひどくなるので少なくとも「泣くのを止めさせるのはよくない」と考える。

万一に、相手から涙がこぼれたのであればその状態を見て判断を行うべきであろう。シトシトと涙がこぼれるようであれば人目のつかない場所へ移動をし、嗚咽交じりの場合は止めるのがベストだろう。

中には、惰性で話してしまう人もいるが話し手として相手の表情に応じて判断できるに越したことはないので是非、注意しながら話してみてはいかがだろうか?

ちなみに感情を出さないを美徳とする日本、しかしながら卒業式や別れの場などでの涙は肯定的です。外国では逆に笑顔を出すのは美しいが涙は遠慮という文化の国も多いのです。

是非、泣くという行動や感情の動きを一つの指標として捉えてみてはいかがでしょうか?

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