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NULLNULL STUDIO 公開制作日記(諏訪部佐代子 VIVA滞在日記②)2014年の高校生と2021年の高校生



今日(2021年6月26日)は1ヶ月滞在して初めてVIVAに来ている高校生が話しかけてくれた。
この上なく嬉しい!
高校生と話したことをつらつらと書いていたら長くなってしまったのでお時間のある時に読んでいただけたら。


《2021年の高校生》

私は勝手にVIVAに来ている高校生たちを応援している。

私の中学校はグループ学習の多い学校だったので友達と勉強する場所をよく探していた。商業施設のフードコートで警備員さんに怒られ、市民プラザで警備員さんに怒られ、、
グループで勉強や調べ物をする場所は兎角その時は枯渇していた。図書館のように静かな場所では話し合いができない。公園では十分な明かりがなく虫も多い。見つけられなかっただけなのかもしれないが、、市長ににこういう場所が欲しいと手紙を書いたこともある。しかしお金のない高校生が土日や放課後グループ学習をできる場所は最後まで手に入らなかった。

しかしアトレ取手VIVAにはそういう場所がある。勉強をしていても、床に寝転んでいても、絵を描いていても、良い。You can do EVERYTHING. 何をしてもいいのだ。
そんな自由の中教科書を広げて勉強をしている学生たちの背中を見ると私は勝手に自分の高校生時代を重ねてしまう。

そして今日話しかけてくれた高校生たちはなんと高校三年生だという。ちょうど彼らの代でコロナ禍のために修学旅行に行くことが叶わなかった代だそうだ。私も留学に行けていない人間なので勝手に共感した。取手に留学してるつもりで過ごしてるよと言ったら笑ってそれいいねと言ってくれた、彼らの笑顔が忘れられない。


私のやっていることを見て、なんと絵を描いてくれた。あまり絵は描いたことがないと言っていたが最高に愛がたっぷりの絵が完成した。無断転載するわけにはいかないので、ぜひ現場に来て見に来て欲しい。


《2014年の高校生》

高校生の子たちには彼らの言葉を滞在日記に書く許可を得ていないので自分が話した話だけを書こうと思う。

どうして美術の道に進もうと思ったんですか? そう一人がボールを投げかけてくれた。
私は子どもの頃…10歳くらいの時、アーティストではなく教育制度を改革する人間になりたかった。

私は公立小学校に通うただの一小学生だったのだけれども、そのとき周りの子は中学への受験勉強を始めるようになり、学校が終わると塾に行き、学校の授業はやった範囲だからつまらないといい本腰を入れない子たちが増えていった。私は学校の授業が大好きだったので、宿題や問いかけを無視する子たちを見ていると悲しくなった。

そのときはとにかくこのまま、中学、高校、大学、就職…、と、受験のために勉強していく制度の中で生きていくということを実感しとてつもなく絶望してしまっていた。今はさすがに視野も広がって、ポジティブに現況をとらえることもできるようになったけれども、10歳の私、諏訪部佐代子にとってはそれが世界の全てだった。皆それぞれに知的好奇心の対象があるのに、その世帯の教育にかけるお金やかけられる時間の違いが教育や将来の暮らしの格差になるなんてこんなに悲しいことはないと信じ込んでしまったのだ。
ある日仲良く登下校をしていた友達のひとりに、そんな思いを吐露すると、「塾に行かないで良く生きていくなんて無理だよ」と言われたのだった。
そのとき私は日本の教育制度に対してどうしようもなく失望した。

それがきっかけで私は公立小学校の勉強だけで生きていくことを決意し、負けず嫌いな子どもだったので塾に通わないまま親に頼んで中学受験をした。その年に設立された新しい公立中学校だった。

そこでフィンランドの教育の本を読み、憧れを抱いたり、友人と話をしたり…、すると意外と周りの子たちも教育制度に対してそういうえも言われぬ気持ちを抱いていることがわかった。そこで私はその道を勝手に託すことにした…。

それでまあなぜアーティストになろうと思ったのかはここで割愛させていただく。直接たずねてください。


話を聞いてくれた高校生たちもちょうど進路に悩んでいるらしい。
やっぱり最終的に就職はしないといけないんでしょうか?ときいてくれた。終身雇用制度がほとんど崩壊していること、ただその一方定期収入のないことで失うものもあること、信用制度の話、AIの代替可能な職の話、私もどうお金を得て生きて行ったらいいかわからないことを率直に話した。彼らが描いてくれた絵も値段をつけてみてよ、と言ったら照れ臭そうに笑っていた。



《自分の未来に期待すること》

私は自分が世界だと思っていたものが世界じゃなくなる瞬間のために生きているのではないだろうか。そう改めて認識した時間だった。

高校生たちと話をしていて、どんな教科が好きかきくと、それぞれの好きな教科を教えてくれた。学校の旅好きな面白い先生の話や政治経済、日本史の話など…、

私は物理が好きだった。ずっと好きだったわけではない。その実高校二年生の時に初めて赤評というものを取った。赤点ではなく評定が赤かった。とどのつまり、1年間授業を受けて何もわからなかったのだった。かなりショックを受けた私は、このまま物理のわからない人間として生きていくと考えた時に恐ろしくなり、文系志望にもかかわらず3年生の時に不得意科目中の不得意科目である物理を選択してしまった。そこである一人の先生と出会って考え方が一変したのであった。私は結局センター試験(東京藝術大学絵画科油画専攻も英語、国語ともう一科目センター試験を受けねばならなかった)も物理で受験した。

その先生は、授業中に電極でサンマを焼いたり、モモを読ませたり、絵を言葉で描写させたりキムチ鍋を食べたりオレンジジュースを飲み比べて味を批評したりととにかくこれは物理の授業なのか?ということを授業でしていた。高校三年生の大事な一年間に、一週間に三時間もである。しかしサンマもモモも絵もキムチ鍋もジュースも先生の言うところその本質は全て物理なのだ。こんなへんてこな授業だったが、なぜかその授業を受けていた生徒はみな一橋や東大をはじめとする難関大学へ進み自分の夢を叶えていった。

その授業を受けてから、どの教科も人間がどうにかしてこのわけのわからない世界を描写した方法のように思えてとにかく面白かった。ありとあらゆるこの世に起こっているものごとを、人間が人間によくわかるように整えて記述する。それが教科書だった。それは作品を制作している今にも活きている。
教科書は私にありとあらゆる世界の大転回を起こしてくれた。

例えば英語なら…、英語の授業で過去形や過去分詞を習った時、自分の言語(日本語)にも過去形があったのだと気づいたこと、過去形のない言語があることの発見、言語ごとにある世界の知覚の仕方の違いに気づいたとき…

例えば物理なら…、私が見ている色がものにぶつかって反射した波の波長によって見え方が異なるスペクトル連続の一部で、人間以外には多くの波が知覚できていると知ったこと、(これを知った時、自分の見ているものが何か分からなくなり絵が描けなくなった)、大人になると聞こえないモスキート音の話…

現代文は大転回に満ち満ちていたから面白くて面白くて仕方なかったし、源氏物語を読んで今も昔も人の考えていることはそうそう変わらないのだということも知った。

学校が嫌になって学校をさぼって行った地磁気反転の地層の話、
そして私がいま一番興味を持っているアボリジニの人々の世界の知覚の話…

私が美術をやめられない所以はそこにあるのかもしれない。まだまだ世界の認識の大転回をこの人生に期待してしまうのだ。

高校生側のレスポンスを書かないとどうも自分語りが過ぎる文章になってしまうがとにかくどんな話でもスポンジのように受け止めてくれて百も二百も返してくれる子たちだった。海外出身のアーティストが今日たまたまいらっしゃった時も、流暢にジョークを交えて話していた。私の文法の誤りも指摘してくれた、素晴らしい子たち。

明日からがまた楽しみになった1日であった。

2021年6月26日 諏訪部佐代子


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