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『未知への追憶」 知らないのにどこか懐かしい

現代の魔法使いと呼ばれるメディアアーティストの落合陽一さんの展覧会「未知への追憶」に行った来た。開催場所が渋谷モディの2F、雑然とした街や大量の人が往来するスクランブル交差点を抜けてたどり着いた場所とは思えないほど、突如としてそこに出現したような存在を感じさせる。

この展覧会はアーティストとしての落合陽一のこれまでの作品が一堂に会する回顧録でありながら、また新たに創り上げた作品を展示し、それらの作品に再対峙する意味においても、また作品たちのいる空間、文脈、鑑賞者が変化するという意味においても”未知に対する追憶”なのだろう。もう少し付け加えると、作者である落合陽一さんにとっては、時空間を隔てた再対峙というコンテキストで、僕たち来訪者からすれば無意識的に重ねられる各々の原風景がデジャブとなってノスタルジーを感じるという文脈で、まだ誰も見たことがない、未だに知らないモノゴトですら思い起こすなどという体験をもたらしてくれる。デジャブとジャメヴを一度に味わう感覚だった。感服。

鑑賞を通して個人的に考えたことは主に二つ。

一つは主客の激しい入れ替わりが心地よいと感じるということ。

今回の展覧会は大きく七つのエリアに分かれ(作品自体はエリア単位だが、思想はエリア間を融け出している)、1:映像と物質,2:物質と記憶、3:情念と霊性では質量を持つ(オリジナルが存在し重力や寿命という制約を受ける)物質と質量を持たない(複製可能であり時空間的制約を受けない)映像を環世界として認識する人からの目線である。両者の間を行き来するときに損なわれる情動や情感に対して思いを馳せる。対して、後半の4:風景論、5:風景と自然、6:質量への憧憬は、主語が質量にあこがれを抱くデジタルであったり(もちろん人体のシステムはデジタルを含むのだが)、主語の変化(マキガイや流木)によってその管轄を変えてしまえる自然(何が何にとっての自然なのかという問い)を扱うことで、人を離れる時間が流れていた。こうした主観や客観を悠々と飛び越えていける脚力にあこがれを抱く。

もう一つが相反すると思われる対義語は、その実、同族でありうるということ。

どういうことかというと、アナログとデジタル、物質と非物質、映像と物質、言語と現象、主体と客体、といった今回の展示で何度となく用いられたそれらの対比は垣根を超え、境界線を融かし、継ぎ目をなくす結論に着地する。AとBという二項対立する概念や現象は、その間を山折りだか谷折りすることで途端に重なりだし、両者の区別などつけようもなくなる(もしくはどうでもいい些事となる)。そうでありながらも、AとBのちょうど間を探索することに楽しみを見出している節も見られる。映像のような物質(周りの世界を映し歪める球体が重力を無視したかのように浮遊しながら自転と公転をするレビトロープ)や物質のような映像(ピクシーダストで手掛けたフェムト秒レーザーを使ったハプティックな光)がそのいい例だ。

メディアアーティストとしての落合陽一が得意とするのはここなのかもしれない。すなわち、テーゼとアンチテーゼを称揚することで新たなジンテーゼを得る弁証法的手法と、対義的な概念の両の手を引き”折衷”や”融通”をするという、これまた相反する手法同士の垣根をなくす。それでいて会社の経営者や大学の准教授をも融合しているのだから僕としては憧憬の念が止まらない。

いろいろ書いたが、今日の感想を一言でいうと楽しかった。ので、また行きたい。

お時間のある方はぜひ足を運んでみてください、と付け加えておきます。



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