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6-01 「都市の息づかい」

連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。前回はC Tanaka「ショット」でした。

5、6巡目は「前回の本文中の一文を冒頭の一文にする」というルールで描いています。

【杣道に関して】https://note.com/somamichi_center

【前回までの杣道】



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ふとジャック・タチの映画を思い返す。空模様を背景とした「プレイタイム」のオープニングタイトルが終わると大きなビルの景観ショットから歩くたびに羽根のようにパタパタと開閉する被り物をした女性二人組をガラス越しに捉えたシーンへ移り変わり、その足音は画面手前に近づくにつれ少しずつ大きくなる。室内(空港のロビー)に移ると左手前に映る夫婦らしき人たちの会話越しに次々と歩行者が現れるが、その足音・移動音は多種多様だ。何かをワゴンで運ぶ男の方から聞こえるワゴンとその上に乗るものが揺れるカタカタ音、何かを探しながら突如足を早める男女の足音(カットが変わり、反対側からのカメラになった時に映るものからおそらくはトイレを探している)、誰よりもゆっくりと歩く清掃員のちりとりを床に置く音、同じ通路を何度も往復し続ける警備員らしき男の足音、トイレ清掃員の女性のハイヒールの音、ベビーカーを押す音。カット変わって反対側にカメラが移ると、トイレから出てくる男のスリッパのペタペタとした音、花束らしきものを抱えた男の急ぎ足にも関わらずほとんど聞こえない足音など、時間にしてわずか2分半ほどの冒頭の空港のシーンの2カットの音を聞いているだけでタチが音に対して相当強いこだわりを持っていることが伺える。まるで足音の速度や大きさ、音色そのものがその人物のキャラクターを表しているようにも聞こえてくる。



タチの映画は色々な音に満ち溢れている。室内シーンでの足音だけに限らず生活音、屋外での都市の喧騒、車の走る音、etc…生活する上で、音は切り離すことのできない要素である。音と共生すること、さながら都市の息づかいのようなものがタチの映画を見ていると自然と聞こえてくる。

都市の息づかいで思い出すのはアルフォンソ・キュアロンの「ROMA」だ。キュアロンが幼少期を過ごしたメキシコシティが舞台のこの半自伝的な映画において、キュアロンは70年代のメキシコシティをサウンドスケープとして再現している。映画内の世界において人々が演奏していたりレコードプレーヤーやラジオから聞こえる音楽を除いて、映画の外側からつけられたサウンドトラックがほぼない本作では鳥の鳴き声や上空を飛ぶ飛行機の音、交通の喧騒、自転車を押しながら街を練り歩く露天商が吹く笛の音などメキシコシティの喧騒が明瞭に聞こえる。特筆すべきなのは、カメラが止まっていれば人や物の動きに合わせて、カメラが動けばその移動によって画面の中で立ち位置が変わる人や物に合わせて音の定位が動くことだ。まるでカメラが観客の視点であるかのように音が動いていく中での映画体験はキュアロンの記憶の中のメキシコシティの息づかいを感じるかのようだ。



タチはそう遠くない未来のパリのセットを組んだ一方、キュアロンは自身の幼少期の記憶を頼りに70年代のメキシコシティの一角を作り上げた。時間の向かう方向こそは違えど、どちらもセットによって作り上げた都市で作品を作った点では共通している。両者の音に対する強いこだわりを考慮するとそこには映像面だけでなく音に対してもコントロールすることを求めた結果、外的要因に左右されにくいセット撮影だったのではという印象さえ受けてしまう。都市にはその都市特有の音、リズム、息づかいがありそこに住む人たちを取り囲む。そうした息づかいが映画の中で感じられることで、我々観客は何かその都市に迷い込んだような没入感を得ることができ、タチが思い描いたような想像上の未来やキュアロンの記憶と結びついていく。

音による遊び心が感じられたり、音によって想像力が大きく刺激されるような映像作品に出会うと、一枚の素晴らしいアルバムを聴いたような感覚を覚える。ある瞬間をカメラによって記録されたものを映画と呼ぶことが出来るのならば、その記録を見返すたびにその瞬間瞬間の都市の息づかいを繰り返し感じることができることこそが自分にとっての至福の映画体験と言えるかもしれない。

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次週は8/1(日)更新予定。お楽しみに!

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