預言は腹に苦い:前田宏による『歌壇』2023年9月号時評「反セクハラに思う」について

 預言は腹に苦いと言う(cf.黙示録10:10)。かのプロジェクトも然り。私に然り。彼に然り。私たちのうしろにあって、私たちを押し出す聖霊の働きは、時に驚きと痛みをもたらす。かのプロジェクトも然り。私に然り。彼に然り。

 『歌壇』2023年9月号の時評子は、昨今の反ハラスメントに関する流れにつまづいた。時評に使われた紙とインクを憐れみたまえ。

 時評子は性犯罪の犯罪性を認識していながら、「現在の反セクハラ運動状況」は「急ぎ過ぎ」と語る。
 プロジェクト「短歌・俳句・連句の会でセクハラをしないために」の事前調査は2019年に開始される。2021年12月には、クラウドファウンディングが開始される。確かに、その文面は各団体にあまりに敵対的かもしれない。回答期限を設けたことは「急ぎ過ぎ」かもしれない。プロジェクトの成果について、私はさして期待していなかった。

 しかし、結果として、現代歌人協会会報170号(2022年3月20日発行)には、「ハラスメント Q&A 第1回」が掲載される。複数の短歌結社が反ハラスメント方針を水面化で準備している。『短歌研究』は2023年4月号で反ハラスメント特集を組んだ。上の世代の歌人と話していても、これまでとは話の通り方が違う。これらのことは、全てこのプロジェクトの成果である。私はこのプロジェクトによって、反感を覚えながらも、人の考えが変わるのを目にした。

 私は悔改めなければならない。確かに、時評子の言うように「運動には怒りや正義感だけでなく、合意の醸成が必要」である。しかし、例え何を語ろうとも、怒りがなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバルですらない。怒りがなければ、無に等しい(cf.コリント13‬:‭1‬-2)。このプロジェクトは歌壇にとっていかに幸いなことか。多くの結社は無回答であったが、無回答は無を意味しない。
 主よ、時評子の目を開かせたまえ。そして聖霊をくだらせ、「自分に何ができるのかを考え」るだけでなく、既に行動している人々の列へと、彼を押し出したまえ。



 ところで、時評中の次の一文には頭を抱えるほかなった。

「歌壇におけるセクハラがパワハラと結びつきやすく、ジェンダー・ハラスメントとも関係が強いことは判るが、反セクハラが定着しないうちに矛先を広げるのは、セクハラ軽視とも見えてしまう。」

 偽善者よ、このようにセクハラに反対することは知っているのに、どうしてすべてのハラスメントに反対することを知らないのか(‭‭cf.ルカ12‬:‭56‬ )。
 時評子の主張する通り、制度は「表面的な抑止」であるかもしれない。しかし、すべての戸はこじ開けられるからといって、戸に鍵をかけないまま寝床につくことはあるだろうか。人はいずれ死ぬからといって、病を治さないままに日々を過ごすだろうか。制度によって、意識改革はついてくる。

 そして私は、この時評の最後に、「性急」ならざる意識変革運動の先例であるかのごとく、女人短歌会が言及されているのを目にした。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる(cf.‭‭ルカ6‬:‭42‬ )。災なるかな。短歌史上の文脈を無視した書き方ではないか。女人短歌会はプロジェクト「セクハラをしないために」以上に大きな反発を受けたことが、記録を読めば伺える。
 主よ、この時評子は、自らが女人短歌を蔑する側に立っていることを、ほんとうに知らないのだろうか。もし彼の目が塞がれているのであれば、それを開かせたまえ。


(余談)
 これと同様に、私はこの時評子が、短歌史上の単語を、その文脈を無視して引用していることを目にした。『水甕』2021年3月号の時評には、杉崎恒夫の『パン屋のパンセ』に関して「高みを目指す魂のリアリズムを感じさせる彼の作品群は、現代短歌の底荷として読み継がれてほしい」と記されている。この一文には塚本邦雄と上田三四二と杉崎恒夫の文脈が混線している。
 「魂のレアリスム」というキーワードは『短歌研究』1956年3月号掲載の塚本邦雄による評論「ガリヴァーへの献詞」に使われたものだ。なお上田三四二は『短歌研究』1956年8月号掲載の評論「短歌のなかの現代詩」で、この論争で塚本邦雄と大岡信が共有していた現代詩の方向性を批判している。
 上田三四二の「底荷」はこの論争と全く関係のないところで、1983年に発表される。この小エッセイを収録した『短歌一生』は1987年刊行である。角川『短歌』このフレーズを借用して、結社誌に注目を促す連載「短歌の底荷」を2021年2月号から開始した。時評子はこれをさらに借用したのだろう。
 果たして、杉崎の歌は「魂のレアリスム」を目指しているのか。「短歌の底荷」であるのか。2010年に発行された歌集を形容する言葉として果たして適切なのか。その検証が不十分なまま使われているように見えてならない。ついでに指摘しておくと、この時評子は杉崎恒夫が「二〇〇九年に八十歳で亡くなるまで作歌を続けた」と書いているが、これは誤りである。『パン屋のパンセ』帯文には「90歳。透明なユーモアとかなしみと、不変のみずみずしさ」と書いてある。杉崎恒夫は1919年生で、2009年没であるから、享年90歳である。災いなるかな。時評子は調べが甘いか、算数ができないか、あるいは、字が読めないかのいずれかである。
(余談ここまで)

 主よ、時評子の目を開かせたまえ。時評子が、誰も急ぎすぎてなどいないことを理解できるように。この祈り、主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。

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