固有時制御;齋藤茂吉

2023年8月18日にTwitterでつらつら書いたことをまとめておきます。

屋根の上に尻尾動かす鳥来たりしばらく居つつ去りにけるかも

齋藤茂吉『赤光』(一九一三)

 この歌はぱっと見地味ですが、時間操作系の魔術なんですよ。来た、居た、去ったが一文に圧縮されていて、一首の時間が加速するんです。そして「~にけるかも」で、トップギアの詠嘆が駆け抜けます。ね。詠嘆には、感情を強調するだけでなく、瞬間を強調する機能もあります。

 Fate/ Zeroに衛宮切嗣って登場人物がいますよね。茂吉の時間操作は切嗣の固有時制御に似ています。切嗣が加速と停滞ならば、茂吉は加速と逆転をやっているんです。上記の歌は加速の方ですね。

おさなごは畳のうへに立ちて居りこの穉児(おさなご)は立ちそめにけり

齋藤茂吉『あらたま』(一九二一)

 これが逆転するタイプです。上の句では既に「おさなご」が立っています。しかし下の句では、「立ちそめにけり(立ちはじめた+詠嘆)」と、おさなごが立つその瞬間にフォーカスされていますね。
 そもそも、立っている状態の前には立ち上がる動作が含まれていますから、上の句は下の句の時間を過去のものとして内包しています。しかし茂吉は、上の句から過去を取り出し、さらに詠嘆を重ねることで動作の瞬間性に強化魔術(バフ)をかけています。
 幼児の立った瞬間は確かに嬉しいものですが、その嬉しさは当事者とそれ以外では隔たっているものです。そのまま書けば平凡になるでしょう。それを、二回言い、かつ時間を逆行させることで際立たせる。これによってこの景は、嬉しさと驚きの共感性が高まり、おもしろい歌となっているのです。

 もう少し時間操作系の話をしますね。茂吉の加速と似たようなことを、現代短歌では永井祐が実践しています。

白壁にたばこの灰で字を書こう思いつかないこすりつけよう

永井祐『日本の中でたのしく暮らす』(二〇一二)

 この歌では、意思→思考→動作が、それぞれ現在形で瞬間として連なっています。ただ、永井祐は加速こそ使えても、逆転を使うことはなかなか難しいのではないかと思います。口語で瞬間性を出すことのできる形は現在形ですよね。現在形の連なりは一見相互に独立しているように見えて、短歌の形で提示されることにより、ひとつの時系列を構成します。

 大辻隆弘は、両者の差異を「多元化する『今』:近代短歌と現代口語短歌の時間表現」『近代短歌の範型』(二〇一五)で論じました。曰く、茂吉の叙述は今という一点からのものだが、永井祐の叙述は多元的な「今」からのものである。

 大辻さんに付け加えて言うならば、現代口語短歌は時間の多元性を獲得する代わりに、時間の逆転を失ったのではないかと思うのです。こうした話は現代短歌の評論でも繰り返し扱われます。

 具体的に例を挙げれば、東郷雄二先生による角川『短歌』2021年8月号掲載の時評があります。
 東郷先生の時評は、永井祐の第二歌集『広い世界と2や8や7』(二〇二〇)が、『短歌研究』2021年6月号で作品季評に取り上げられたことから話が始まります。続いて、季評で扱われていた永井祐の歌における時間的な拡散を、具体的な作品とともに確認していきます。角川『短歌』の時評は見開き三ページありますから、読み応えがあるんですよ。

 ちなみに、時間操作は得意とする歌人が多いんですよね。日々のクオリアだと、平岡直子の書いている次の記事「豚のいる村があってハムになるめぐりしずかに夕焼けてゆく/髙橋みずほ『白い田』(六花書林:2018年)」がお気に入りです。

この話はここまでにしますね。

最後に宣伝です。
今年の春には『現代短歌』2023年3月号が齋藤茂吉没後70年記念特集を組んでいます。私も若手歌人50人による茂吉のおすすめ歌集アンケートに答えました。茂吉の歌が気になった方は、こちらの本からいかがでしょうか。


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