岡松雄『精神窓』評:花へのフェティシズム

モダニズム歌集評第7回
底本:岡松雄(おかまつ たけし)『精神窓』(協和書院、一九三七)

岡松雄の当初の所属結社は現時点で把握できていません。なお、前川佐美雄の主宰する『日本歌人』に出詠していたことは確認できています。その後は盟友の早崎夏衛とともに『短歌精神』を一九三五年創刊、早崎と交互に編集を行いました。
『短歌精神』について、詳しくは前回の『白彩』歌集評前半部分をご確認ください。
また、『短歌精神』誌上に『精神窓』について『白彩』のような批評特集はありませんでした。

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岡松といえば花だ。モダニズムの歌人は花のような華やかなモチーフを使いたがるが、岡松は特にフェティシズムが際立っているように見える。

季節はづれの薔薇あはれなりと水かければ花瓣(はなびら)もろくくづれゆくなり

これは歌集の衝撃的な巻頭歌である。この歌のせいで以後、花の歌が目につくようになってしまう。さて、故事成語の「助長」といえば、一般によくないものを促進させることの意味として使われるが、もとを辿ればはやく植物を成長させようとしてその植物を上に引っ張ったところ、抜けて枯れてしまったことに由来して、本来の意味は、“助けようとしてダメにしてしまう”ことであった。この歌はまさしくその故事の再現である。
しかし岡松の花にかける期待は衰えない。次の歌を見てほしい。

娘らの帯からぬけでた花や蝶が舞へば明るき春の街なり
寂しさに堪えがたき夜は街に出でいちばん紅い花をもとむる
この怒をこのまま家にうつすのを怖れて街で花買つてゐる

花が蝶と同じように街を舞っている。絵画からそこに描かれているものが抜け出すイメージは、一休さんなど、古来より用いられてきたものだが、舞わない花を舞わせるのは力業だ。また、寂しさを紛らわしたり、怒りを中和する便利なアイテムとして花を用いようとしている。三首目は「このまま家にうつす」というのも気になる言い方で、心の中に怒りを容れたまま家に帰るのがよくないから、花にその怒りを移して、家に帰るということだろうか。花は犠牲者なのかもしれない。

目から耳口を浄めて神となれば花や小鳥にかこまれてゐる
明方のあかるき庭にわが立てば花のやうに世界がひらきくるなり

花は清められたことの証として小鳥とともに登場したりもする。世界が「ひらく」ことの喩えも花である。それにしても、花が「ひらく」のはよく知っているものとして理解できるものの、世界が「ひらく」とはどういうことだろう。
このように、花へのフェティシズムは尽きない。

冬花のやうに冴えないわが感情(こころ)にけさカナリヤが凍(こご)え落ちにき
自転車にひらり飛び乗ればきらきらとスポーク光る犬もついてこよ
一匹の蠅を追ひゐてあまりにも真剣になりかの日にぶつかる

花のほかに登場する生き物も見てみよう。鳥と犬はモダニズムによく登場するようなモチーフではある。何を追いかけ回すのもモダニズムによく出てくる。
この中で、犬の歌はやはりおもしろい。スポークは車輪の中心から放射状に伸びている棒であって、別にスパークのことではないが、「きらきら」と「光る」にはさまれるとこの部分も閃光を放つような気がしてくる。

しろい雲の下ゆくことがなつかしければ野牛の眼(まなこ)にわれは消えゆく

動物といえばこういうのもあった。この歌は位置関係を取るのが難しい。短歌のカメラは目に反射した自分自身の像を捉えているが、観測主体であるはずの自分自身は、遠ざかって消えてしまうのである。作中主体と短歌のカメラを分離した歌はこの時代から試みられるようになったもので、この歌もその好例と言えるだろう。

岡松の歌集は以下のリンクから読むことができる。ただし、利用には国会図書館への情報登録が必要であることに注意されたい。
岡松雄『精神窓』:国立国会図書館個人送信サービス


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