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北海学園大学短歌会機関誌『花と硝烟』創刊号掲載評論の感想

しばらく前に田中綾先生から『花と硝烟』創刊号(2024)を送っていただきました。月のコラムを仕上げてちょっと気持ちに余裕ができたのでこの機会にわーっと書いてしまいます。なので荒いところがあるかもしれません。

・山田航「清水信ノート」について
 新興短歌のうちモダニズム派は定型に拠ったグループが代表的収穫とされ、自由律モダニズムは前田夕暮や土岐善麿の作品がわずかに触れられるのみといった状況が久しく続いているかと思います。
その中で自由律モダニズムに広く目配せした清水信の作品研究があることは貴重に思います。
 ところで夕暮ら年長世代がハイフンを使うのに対し、清水らの世代は単語の切れ目に一字あけを用いています。こうした字あけがはじてて意識的に多量に導入されたのがまさにモダニズムの時代だと認識しているのですが、その意図するところはどこにあったのか、少し考えています。
 同じモダニズム派でも定型モダニズムの前川佐美雄ら短歌作品系グループが字あけを使っていないことを考えると、短歌的な切れ目とは別のところに切れ目を作り出したからったからではないか。釈迢空が句読点と字あけを併用することを考えれば、この仮説には少しばかり妥当性がありそうです。
 このテーマは、翻って、前衛以降の字あけや、現在の口語短歌に見られる字あけの意図として私たちが無意識的に考えていることはなんなのかも考察できそうです。モダニズム期の短歌は好きですが、それだけではなかなか関心が持たれにくく、現在の私たちがモダニズム短歌を読んだ方がいいと勧められる口実をいつも探しています。

・渡辺駆の評論について
「戦争の正身:いま、短歌史を学ぶ意味」

 短歌史を学ぶ者としての決意が伝わる文章で好感を持ちました。しかしながら、評論としての評価を考えたときには疑問の残る文章であるとも感じています。評論賞で評価されなかった理由について少し考えてみます。
 五章構成で、序章から二章までの前半が短歌史と戦争の関係について、三章以降の後半が短歌の内部から戦争に抵抗する水原紫苑の作品に注目したものです。
 第三章の第一段落には、「短歌こそ、戦争責任を問うこともできる詩型であると言い換えることも可能であろう」とありますが、私はここに疑問を持ちました。短歌の戦争責任については戦後に第二芸術論として問われています。その中で、短歌は本質的にファシズムに親和的である旨が(もちろん当時はファシズムとは言いませんでしたが)繰り返し主張されており、結論として短歌の否定が叫ばれました。従って、この主張を妥当なものとして提示するためには、第二芸術論(と呼ばれる主張の総体)への反論がまず必要になるのではないか。逆説的な主張は文章の流れとしておもしろく思いますが、そのロジックは思いのほか自明ではないと感じます。
 なお、評論賞では引用歌の重要性がしばしば語られます。短歌研究2019年10月号(土井さんが受賞された年)掲載の座談会では、引用歌の客観性について終盤に佐佐木幸綱が発言していました。このことから、私は短歌史を秀歌の選定とその解釈に関するメタヒストリーだと認識しています。序章から二章まで、既存の秀歌の引用とその新たな解釈が示されなかった点も、評論としての強度を下げているように思います。選考委員になる前の寺井さんは、「畢竟、短歌評論は歌の鑑賞に尽きる」みたいなことを言っていて、それ以降、私は主張をする際は先行する論にに合わせて短歌も引いて例証するように心がけています。

渡辺駆「『新風十人』:その芸術性と〈良心〉」
 論争したくなりますね。これ。篠弘の明治四〇年代近代短歌起源説(新歌人集団をその終端とする説)の集大成は篠の評論『自然主義と近代短歌』にあります。私は篠説を、自然主義をキーワードにすると近代短歌と現代短歌が区分できるという主張だと理解しており、その拡張可能性に期待しつつ継承したい立場です。
 確かに篠さんが塚本邦雄を短歌史の特異点として描いていることは否定しません。青春時代に彼等の歌に触れたことは篠さんの歴史観に影響を与えたでしょうし、そこは批判的になる必要があるでしょう。しかしながら、篠説の魅力はそれだけではなく、また塚本中心的な歴史記述の方法は菱川善夫にも見出すことができます。『新風十人』は前衛短歌の先駆体として挙げられていて、前衛を基準に近現代を区分していることはそんなに変わらないのではないかと。もちろん文章中にも指摘はありますね。だから、青春時代の経験が短歌史観に影響を与えているという指摘は、菱川に対しても当てはまることになります。
 すみませんオタクの早口ですね。篠説の拡張可能性について論じようとすると時間がかかっちゃうのでここで書くのはやめておきます。本論が総合誌掲載だったら論争にしようと月のコラムで扱ってたんですけど、うーん……。渡辺さんどっかの定期刊行物で書いてたりしないですか。

・峰艶二郎「女歌誅殺の射程:菱川善夫の女歌論と山中智恵子の両性具有歌」
 長すぎて博論かと思いました。三章構成で、前半の一章が菱川善夫の女歌論の時代別概観及び批判と評価、後半の二章と三章は菱川が例外的に女歌とは別の仕方で評価した山中智恵子の歌の批評となっています。
 私には悪い癖があって、「斎宮」を見るとたいがい宗教勧誘を断るときのように「間に合ってます」と本を閉じてしまいます。何が間に合ってるのかわかんないんですけどね。だから山中の古典に取材した歌も長らく薄目で眺めていました。だからこそ、権威から追放された人の喩として斎宮を山中が用いていたという指摘は新鮮に感じられます。

以上です。紺野藍さんの作品も良かった。

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