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語り手たちのアンチテーゼについて:豊永浩平「月ぬ走いや、馬ぬ走い」に寄せて(2)

※小説読んでから読んでほしい内容です。読んでない人は回れ右。

第一印象は、私と、私たちのための文学が書かれていると思った。作中で言及される娯楽が私たち世代のものだからだ。私は1997年生まれで、沖縄の出身で、いわゆるZ世代と呼ばれる2020年代の「若者」である。別に呪術廻戦は読んでいないが、友人たちがそれを楽しんでいることは知っている。作中では高校生たちが楽しんでいる音楽として沖縄を拠点にするラッパーであるAwitchや唾奇やオズワルドが言及される。日本の小説はほとんど内地の青年たちのもので、アメリカのアジア系が白人のヒーローものを楽しみながらちょっと居心地が悪いように、沖縄にいて『ぼくらの七日間戦争』(宗田理)を読んでいた中学生の私は、作中の思春期の子どもたちに共感しつつ、小説内の時空間といま自分が置かれているそれとの距離を無意識ながらひしひしと感じていた。女の子が男の子向けのコンテンツを楽しむのはカジュアルに許されるようになったが、逆は公然と口にすると眉を顰められることがある。ともあれ、自分が主たる受容者とみなされていない漫画やアニメや映画に触れるときのバツの悪さについては、覚えがある人も多いかと思う。もし、いま私がなんの話をしているかわからないなら、あなたは幸福な人だ。

本作は比較的わかりやすい小説だ。小学生の夏休みの日記のような文章から始まる。こんな文章のうまい小学生があってたまるかというのはさておき。小説を読み慣れていない人にも勧めやすい。小説はやはり中産階級以上の趣味で、ああ、階級の話がわかりにくければ実家が持ち家の人たちの趣味で、と言い換えておくが、そうでない人たち、例えば実家がアパートの子どもたちは小説よりも漫画を読んでいた。社会的な階級による趣味の差異についてはブルデューとかを参照してほしい。いまかなり感覚的に書いているけれど、日本でもなんらかの研究はあるだろう。作中の島尻家はたぶん中産階級だ。黒島家と菜嘉原家はアパート暮らしであるように思う。島尻大尉は士官で、菜嘉原上等兵は兵で、軍隊における兵と士官は厳然たる身分制度として運用されている。ハーグ陸戦条約では捕虜の身分における士官の労役が免除されているくらいだ。『戦場にかける橋』を観てほしい。あれはいい映画である。

えーっと、なんだ、ああ、下層階級である。この小説には謎解きの楽しみがある。普段小説を読まない人にも勧めやすい。だから、純文学として象牙の塔に籠った作品ではなくて、文学が世界を変える可能性に賭けて撃って出た作品であると期待していたのである。いやはやどうだろう。兵隊さんのお堅い文章のあたりでその層は読むのをやめるかもしれない。うーん、映画化されたりしないだろうか。人のことバカにしすぎかなぁ。小学生のころ小説読んでてバカにされたのはこっちなんだが。

そろそろ本題に入る。昨日、沖縄文学の文脈において、この小説はどこが良いのかざっと書いたのだが、これを書くにあたってずっとわからなかったことがある。断片8に登場するノンバイナリな身体を持つ「ぼく」の部分が、作中の誰とも縁を結ばないことだ。いわば台風の目のように、本作の中に謎として置かれているのである。身体的特徴を鑑みるとクラインフィルター症候群(染色体がXXY)かと思うけれど、トランスジェンダーのことを連想したりしている。先に書いた批評もどきの中では、言葉が人を救わなかった一例としてあげさせてもらった。けれどそれだけだと解釈するには、複雑に表象が絡み合うこの部分への解釈として片手落ちであるように感じてもいた。しばらく経って、この部分の謎にひとつ妥当な解を与えられるような気がしてきたので、いまこれを書いている。

謎解きの鍵は、選考委員の一人が、選考座談会での話題としてベトナム戦争当時にエイズがなかったと言及しているところにある。社会的な紐帯から外れたゲイの青年たちは、エイズが流行する中で、いつ死んでも構わないからと刹那的快楽に身を任せて乱交した……というのは半ば都市伝説のように語られている80年代90年代の風景である。本作でエイズが関連する箇所があるとしたら、ベトナム戦争下で風俗業に従事している「ぼく」の箇所以外にはありえないだろう。ちょうどジェイコブはベトナムに飛ぶ手前だった。彼は死ぬかもしれない。「ぼく」は社会的紐帯から外れたノンバイナリな身体をもつが、雑誌掲載の形では、何かが足りない。作中でラジオから流れている曲は、The Doorsのpeople are strangeだ。こんな一節がある。

No one remembers your name
When you’re strange

The Doors “People Are Strange”

ストレンジとクィアはちょっと違うけど、一旦は一緒にして考えてみる。「ぼく」の名前を誰が覚えているか。ジム・モリソンは誰も覚えていないと歌う。「ぼく」はストレンジな奴だからだ。足りなかったのは主体自身が死の危機に瀕していることである。エイズ罹患の可能性が提示されることで、「ぼく」はジェイコブと同じく、死の危機に瀕して刹那的享楽にふける主体であることが判明する。それでも「ぼく」はソ連がアメリカも日本も沖縄も焼いてくれることを望んでいる。世界の終わりを待ち望む冷戦的完成だ。「ぼく」は行動しなかった。行動したもう一人の「ぼく」、学生運動に身を投じた菜嘉原秋繁とは対照的である。風俗嬢なのか男娼なのかわからない方の「ぼく」は、名前や血縁で誰とも関係ないようにありながら、多くの語り手たちのカウンターとして聳えている。「彼によれば、ぼくは「非ソシュール的」で「脱構造主義」的な人間らしかった」とこの断片には書き込まれている通り、「ぼく」は物語の縁の外側にあって、それでいて意味ありげに存在感を放っている。希望を見出すためには社会的紐帯から外れてはいけない。誰かとして名前を持たなくてはならない。意味だけで、名前が書き込まれていないから、非ソシュール的なのか。難しい話である。

「ぼく」はおそらく若くして死ぬと思う。この先生きながらえる気がしない。「ぼく」の断片はやはり言葉が人を救わなかった事例である。文学に救われた断片6の女性のアンチテーゼでもある。「ぼく」はどうしたら救われたのか。言葉に希望を託せる人と、そうでない人と、両者をわかつものは何か。この問いは小説が提起したものであるが、私は読者として小説にこだわらず考えていく他ないのだろう。およそ文学は問いを拡大する学問である。本作は私に新たな問いを投げつけてきた。

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