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金言は金の価値をもつか:豊永浩平「月ぬ走いや、馬ぬ走い」に寄せて

0.はじめに

沖縄文学に新しい書き手が現れた。私は那覇の生まれで、ふるさとの大学に通っている作家が群像新人賞を受賞したらしいと聞き、喜び勇んで受賞作掲載号を買い求めた。講談社の『群像』2024年6月号である。小説の舞台は沖縄。たぶん作者の母語は沖縄大和口(ウチナーヤマトグチ)だろう。私もこのピジンを母語とする人間だ。先祖伝来の琉球語でもなく、日本語でもない。哀れな醜い愛すべき我が母語よ。などと某山犬の台詞を雑に引用してもはじまらぬ。私はこの小説が気に入っていて、より多くの人に読んで、鑑賞してもらいたいと思っている。そのために必要なことはなんだろう。批評である。私は批評の書き手で、批評は鑑賞の助けになることを信じている。

この文章は豊永浩平「月ぬ走いや、馬ぬ走い」の鑑賞の一助となることを目的として書かれている。私はそういう批評を目指したい。タイトルの読みは、ちちぬ、はいや、うんまぬ、はい。リズムは3, 3, 4, 2。日本語に直すと、月の走りは、馬の走り。リズムは3, 4, 3, 3。日本語にすると3+4=7音のリズムが出現する。「光陰矢の如し」を意味する黄金言葉(クガニコトバ)だ。金言、格言。慣用句のことを沖縄の昔の人はこんなかっこよく言っていた。沖縄の言葉が使われている小説は読みにくい。リズムが違うからだ。読者はまずリズムの違いに慣れなければならない。五七調でも七五調でもない南島の言語。基軸は3音のスタッカートのリズム……。

1.批評について

小説が山だとしたら、批評はロープウェイを架線するようなものだ。はっきり言って無粋である。とはいえ乗り物はあると便利だ。山登りの楽しみは自分の足でのぼりきることなのは理解できるが、いろいろな装備が必要で大変でもある。ロープウェイがあると、登山靴ではなく運動靴でも登れるだろう。自分で読みたい人はその道を進んでほしい。けれども、批評の側から眺める景色も悪くないと思う。

いや、アナロジーではぐらかさず真面目に書いたほうがいい。批評とはどのような営為なのか。いま手元にノエル・キャロル『批評について』という本があって、これを開いてみよう。キャロルは批評の本性について、以下のように記述している。

批評の本性は、芸術作品の価値づけをすること――つまり、芸術作品のどこに価値があるのか、またどこに注意を払うべきなのかを発見すること、そして、なぜそうなのかを説明することである。もちろん人は、自分自身のために批評をすることもできる。だが批評家は社会的な役割を担うこともある。その社会的役割の中でも批評が持つ最も重要な機能は、批評家本人がその作品にあると信じている価値を、読者にも発見できるようにする、という点にある。価値を把握しようとする読者のために、邪魔になりかねないあらゆる障害を取り除いてやることは、批評家の任務なのだ。

ノエル・キャロル『批評について:芸術批評の哲学』(勁草書房, 2017)第一章三節


批評家は自身の読者に対して、ある作品にどのような価値があるかを説明するものだ……というのがキャロルの主張である。もちろん理由付きで。理由がなければ読者は説得されないだろう。批評など読まず作品に向き合って、その価値を発見できるならそれに越したことはない。けれども小説という山の中で遭難する可能性もある。いやいや、せっかく買った雑誌を読みきれなくて放棄するのはもったいない。そういった可能性を取り除くのがこの文章の役割だ。

理由付けのためには、この小説「月ぬ走いや、馬ぬ走い」が置かれている文脈に注意を払う必要がある。私はこの小説を沖縄文学の文脈で価値づけてみようと思う。

ああ、こんなエクスキューズを書いているのは私が普段短歌の評論を書いているからである。批評や沖縄文学の前提が分かる人は本論3節まで読み飛ばしていただきたい。いやむしろ書店に行って『群像』を入手し、早いことこの小説を読むべきである。

2.沖縄文学の文脈について

沖縄文学の文脈とは何か。その文脈において、この小説はいかに評価されるのか。この小説の価値づけにおいて問題となるのはこの二点である。まずは前者の問いから考えていくことにする。

この小説は14の断片によって構成され、14人の語り手がいくつかの事件や遺品で関係を持ちつつ進行する群像劇の体裁をとっている。選考委員は誰も言及していないが、同様の形式をとる沖縄の小説として私が真っ先に思い出すのは、目取真俊(めどるましゅん)の『目の奥の森』(2009)だ。こちらは2004年から2007年に雑誌で連載され、10の断片で構成されている。ただし、同じ語り手が複数回登場する。

豊永と目取真の小説に共通するテーマは性と暴力のトリクルダウンである。暴力のトリクルダウンとはつまり、水が低きへ流れるように、上官から部下へ、兵士から民間人へ、父から母へ、母から子へ……と、時代を通して暴力がより弱者の側へと次々に連鎖していくことだ。性のトリクルダウンの方は、そうした社会状況そのものが生殖によって再生産されていく様子を個人的にそう呼んでいるものである。

小説で描かれる沖縄社会は実際の沖縄社会の様子とそこまで遠くない。もしかすると現実の方が悲惨かもしれない。だから目取真は『目の奥の森』以外でも性と暴力の連鎖を小説のテーマに据えているし、同様のテーマを扱った沖縄文学も多い。もはや沖縄文学のひとつの型として考えることも可能である。ちょうど豊永の小説内に、この状況を象徴するような一節がある。

じぶんが女だということにときどき耐えられなくなりそうだった。……沖縄の女は女から産まれて、また出産をするために必要な男女のどちらかを産み、それから子宮をかたどった亀甲墓に還っていく……逃げ場のないしめった女体の島。

次世代に希望を託して子を成したこの女性は、産まれてきた娘が自分の人生とほとんど同じような軌跡を辿っていることに気づき、絶望する。娘の方は中学生で、高校生の彼氏に希望を託して島を出ることを思い描いている。けれども母は、そうやって男に期待してきた自分の人生を振り返り、そこに希望はないと語りかけるのだが……。引用文は母子の会話の直前に挿入されているものだ。

全くもって気が滅入る内容だ。けれども現実の方はもっと気が滅入るものだ。だとすればフィクションの役割は、性と暴力の連鎖が70年にわたって継続する南の島で、どのような希望を提示できるかにかかっている。沖縄文学の文脈における本作の価値は、この点を明らかにすることで定まるだろう。

3.戦争の記憶を呼び出す

小説批評のお作法では、まず物語の流れを俯瞰することになっている。先述の通り、本作は14の断片の集合体である。仮にこれを断片1~14と呼ぶことにしよう。もっとも、元テキストには数が記されていない。物語に流れる複数の時間はまず過去か現在に大別できる。過去の方は①戦中か②戦後か、現在の方は③ある事件以前か④事件以後かにさらに区分できる。くだんの事件については後述する。

物語の導入部分である断片1は小学生男子の「ぼく」(島尻・ケンドリック・浩輔、祖先にアメリカ人をもつ)が旧盆最終日にあたるウークイの日に、片思いの女の子(かなちゃん)に連れられて海に行き、日本兵の幽霊と遭遇することが語られる。断片1は事件以後のものだが、それは一旦どうでもいい。本作は断片同士がかなり滑らかに接続するという特徴がある。断片1と2の接続部分を引用しよう。

兵隊さんは手も足もだらーんとしたまま、ぴちょぴちょ海水をたらして浮かんでいます。ヘルメットみたいなぼうしをかぶってて、顔は見えません。ザザーン。兵隊さんは、私は七十八年前に死んだのだ、と言いました。兵隊さんは低いうめき声で、私は
〔ここから1行あいて断片2が接続される〕
今や、あらゆる肩章を喪失した単なる海の藻屑の一ト片(ひとひら)に過ぎない。私はこの浜辺で永久に戦火に囚われ、辱められる虜囚と成った。歴史は、或る間隔のもと……〔後略〕

映画には登場人物などの動作を同期させてカット同士を繋ぐ手法があると思うが、本作における断片同士の語り手の切り替えはこうした手法を思わせるものだ。ひらがなの多い小学生の日記体から漢語の多い戦記物の文体へ、また現代の若者の口語体へ、などと文体は自在に接続される。多彩な文体の多才な作者である。

沖縄文学には幽霊が頻出する。実際の沖縄にも頻出するのだが、この話はまた今度にしよう。犬も歩けば棒に当たる。注意深く歩いていると、街の茂みの中には防空壕として使われた天然の洞窟があって、だいたい不良少年どもがクスリをやるのに使わないように、鉄格子で塞がれている。地上戦は70年前の出来事であるが、肌でその痕跡を感じられるところにある。幽霊の語りに耳を傾けよ。

断片2は海辺で戦死した日本兵の幽霊である「私」が、いかにして戦死したのかを語る内容だ。文体は漢語だらけで非常にお堅い。まるで戦記物を思わせるものだ。生々しい戦闘描写に続き、「私」は泣きわめく幼い赤子を連れた母子と出会ったことを語る。彼は米軍への奇襲攻撃のためにその母子を殺害したようだ。子は縊り殺し、母は天皇陛下から下賜された恩賜の短刀を以て刺し殺した。そして戦死した。本作において過去と現在を繋ぐ重要な道具にこの恩賜の短刀がある。

戦時中の記憶は断片4においても語られる。この断片では若い日本軍士官である「私」(島尻大尉)が、カミカゼ・ボートこと自爆艇「震洋」による特攻攻撃のため待機する部隊で起こったことを語る。断片2の幽霊軍人は八紘一宇といった戦前のイデオロギーを信じているが、島尻大尉の方は英米文学ヘの心寄せを捨てきれず、厭戦的である。かといってヒューマニズムを徹底するだけの勇敢さもない。「島尻」は冒頭の小学生(浩輔)と共通する姓であるが、血縁関係は不明である。部隊内では軍夫及び慰安婦殺害事件が生じた。実行犯は菜嘉原(なかはら)上等兵という男だった。「私」はこの男を裁くことができなかった。どうせ特攻で死ぬのだから……。しかし時代はそれを許さない。8月15日がやってきて、特攻の必要は無くなった。士官たちはカミカゼ・ボートによる自決を計画していたが、菜嘉原上等兵がそれを許さなかった。彼は全てのボートに穴をあけ、炸薬を一つのボートに詰め込み、ひとり沖に出て自爆してしまったのだ。

菜嘉原と島尻と、二つの姓は現代の時間軸においても接触を果すことになる。戦争の記憶は物語の舞台装置であるが、過去は決して現在の私たちにも無関係ではない。直系親族の経験した戦争の記憶はあまりにも身近で、戦争がなければ自分は生まれていなかったと認識することはたやすい。断片1の小学生、島尻・“ケンドリック”・浩輔を思い浮かべる。彼自身まだそれに気づいていなくとも、戦争がなければ米軍は沖縄に進駐せず、彼は生まれていなかったはずだ。

4.性と暴力の収斂する現場

現代の時間軸は戦争の記憶という舞台装置の上に成り立っている。先述の通り、現代の時間は事件以前と事件以後に分割されている。

事件以前の時間では3人の語り手が登場する。ひとつずつ確認しよう。断片3では、女子高生の「あたし」(愛依子(あいこ))がクラスメイトの我那覇周(がなはしゅう)と付き合って別れるまでのいきさつを語る。暑さによって髪がベタつくこと、生理の不快感などを元に、違和が身体を出現させる逆説を語り(むろんこんなかしこまった批評家のような言い方はしていない)、彼氏との初体験の最悪な経験も提示される。

断片7では、男子高校生の「おれ」(当の我那覇周である)が元カノとヨリを戻したくてガマ(防空壕などとして利用された沖縄の自然の洞窟)へ肝試しに行く。こともあろうにガマに入った証拠品として何かを持ち出すことまで決めている。現実でこんなことをしたら地元紙の一面でニュースになるから、やってはいけない。しかし肝試しの最中に、痴情のもつれから男の先輩を殴り、はずみで地蔵を倒してしまった。結果祟りが起こり、怪奇現象に見舞われる。ざまあみろ。いや、災難であった。そして命からがら逃げ出す。最後に、肝試しに参加していた友人の菜嘉原徳生(なかはらのりお)が、ガマから恩賜の短刀を持ち出したことが描写される。こうして、戦中と現代が接続された。高校生二人の語りはウチナーヤマトグチがかなり混じった口語文である。

菜嘉原徳生には女子中学生の恋人があった。断片11はその女子中学生の「わたし」(黒島奈都紀)が、徳生のバイクを待つ間に女性一人称独白体で自身の家庭環境、高校生の不良グループとの付き合いとそこからの脱出を回想する。この断片から、小説の時間軸は、事件を中心に緊密に隣り合うようになる。

断片12では奈都紀の母である「わたし」が語り手だ。少女時代からの回想ののち、彼氏とともに家に帰ってきた娘に家を出ていくことを告げられ、逆上して木彫りの置物で娘の頭を殴りつける。性と暴力の収斂する現場だ。事件はこの直後に起こる。

続く断片13では女子中学生の恋人である男子高校生の「おれ」(菜嘉原徳生)が語り手となる。奈都紀が殴られた直後、「おれ」は奈都紀の母を止めるが、逆に自分自身が首を絞められることとなる。本作で最も劇的な場面だ。

おれの下にいる、奈都紀の母親が、それこそ阿修羅の形相で睨みながら、両手で万力のように、おれの首を絞め上げてくる。何スンノヨ、アンタミタイナ馬鹿ナ男ノセイデ、ワタシタチハイツモクルシイノヨ、クソ、殺シテヤル、殺シテヤル。〔中略〕きっと、いままでの、人生でうまくやれなかった恨みがぜんぶ、おれの首にかかってるんだ。クソ、迷惑すぎる。

中年の女が男子高校生の首を絞めている。歴史の重みは首を絞める力の重さを感じさせるものだ。けれども「おれ」はガマで拾った恩賜の短刀を思い出し、錆びて鈍器のようになったそれを使って、逆に奈都紀の母親を殴り殺した。

冷静さを取り戻した「おれ」と奈都紀は事件現場を離れ、ネットカフェにこもり数日過ごしたあと、恋人との性行為を隣の部屋の客に撮影されていることに気づき、その客とトラブルを起こし、バイクでその場を去る。彼らの乗ったバイクは雨のため横転し、自損事故を起こす。奈都紀はこの事故によって死ぬ。また少女が死んだ。畜生め、物語はいつもこうだ。いや実際に現実でもこうして人は死んでいるのだから仕方ない。知り合いの知り合いくらいの距離にいる人が何人か死んだ話は伝え聞いている。子を成した人はお盆で子孫に迎えられる。子を残さず死んだ彼ら彼女らはこの世のどこで迎えられるんだろうか。

本作の抱える中心的事件は黒島家母子の死である。恩賜の短刀は、家父長制と、家父長制の喩としての天皇制をかなりわかりやすく象徴している。1945年に戦場で子連れの母を殺した短刀は、持ち主を変えて再び人の母を殺すことになった。短刀の持ち主は事故でその娘も殺してしまう。菜嘉原上等兵が慰安婦を殺したこと、そして彼の自爆も遠くこの事件への運命を感じさせる。本作の主人公は彼らカップルだ。徳生はいいやつで、殺しの責任を引き受けるだろう。もしかすると自殺するかもしれない。自殺はトリクルダウンした暴力が自分自身に向かうものだ。小説ではそこまでは描かれない。私は彼に生きてほしい。

ところで、幽霊になったのちも他者との交流の可能性を示唆するのは沖縄文学に頻出する内容で、断片5の語り手「ぼく」(中学生男子、黒島奈都紀のクラスメイト)のもとに、幽霊と思われる奈都紀が姿を見せるのは、既存の物語の型をなぞったものと言える。本作の価値はそれとは別の箇所にある。

奈都紀の母を殺害した事件の直後、徳生は小学生の浩輔とかなに接触している。断片14の語り手は浩輔が片思いをしていた「かーなー」である。一人称に自分の名前を使うのは沖縄の少女によくみられることだ。徳生はこの二人に危害を加えなかった。もちろん危害を加える理由がなかったからでもあるが、より弱い存在を前にして、徳生は暴力のトリクルダウンを断ち切っている。歴史は反復するが、現在は過去と異なる可能性に開かれている。歴史の呪縛を幾重にも示しながらも、現代を生きる若い世代がその呪縛から逃れられる可能性を示唆する点に、創作の第一の価値はある。

5.言葉が現実を変更する可能性

そして本作では、詩と言葉が力を持たなかった過去から、それらが力を持つ現在への転換を示唆する場面が随所に見られる。過去の断片を見てみよう。断片8の語り手である「ぼく」はベトナム戦争下の時代に米兵相手の風俗業に従事しており、ジム・モリソンの歌は彼or彼女に(「ぼく」はノンバイナリな身体をもつことが描かれている)これといった救いを与えなかった。断片10の語り手である「ぼく」(菜嘉原秋繁)も、学生運動に従事して拘置所に留め置かれる中で、これまでの言葉の無力さを感じ、転向を考えていた。けれども現代の時間軸においては、言葉は希望として提示される。タイトルの格言がそれを象徴する。

本作のタイトルが沖縄の格言であることは先に言及した通りである。しかし、本作ではこの言葉に別の意味を与えている。小学生の「かーなー」の語る断片14から、島尻オバアの台詞を引く。

月ぬ走いや、馬ぬ走いさ、浩輔、馬さながらに歳月は駆け抜けてしまうのだから、時をだいじにすべし、けれど苦悩は結局なくなるものとしてほうってしまいなさい! かーなーの好きな島尻オバアの口ぐせで、説教されているこうちゃんはもどったかーなーをみたらぽっと顔を赤くして、目が合ったのにすぐそらしちゃいます。なんでだろう?(太字は原文)

島尻オバアはかなちゃんに告白しようとする浩輔を励ましてこの言葉をかけているのであるが、当の「かーなー」はそれに気づいていない。それはさておき、この内容は断片6の手紙文にもほぼ同じ内容が書かれているので、島尻オバアと断片6の語り手は同一人物であることが示唆されている。

また、人の死は周囲の人間にも衝撃を与えるものだ。徳生が人を殺す事件を起したのち、同級生の我那覇周や愛依子なども衝撃を受けたようだ。ヒップホップのリリックは、本作においてそこから立ち直るためのきっかけとして提示されている。断片9の語り手である男子高校生の「おれ」(伊志嶺)は、友人の「透」に頼まれてリリックに曲をつけている。「おれ」は、そうすることになった経緯を以下のように語っている。少し長くなるが引用しよう。

徳生くんが事故を起した、それもそのせいで人を殺した、というニュースがクラス中を駆け巡ったとき、もっとも沈んで茫然自失に陥っていた生徒のうちのひとりが透だった。〔中略〕だからこそ透にはラップが必要だったのだろう。あくまでサイファーをやるくらいに留めていた彼がこうしてMV作成とその配信を本格的におもい立ったのは、徳生くんの事件のためなのだ。どうしてこんなことが起こったのだろうか、それを深掘りしていくとじぶんの出生に行き当たる、それからさらに掘り進めると、じぶんのなかに潜む歴史の縦糸を遡りつづけることになる。そういう風にしてじぶんの生の条件の根(ルーツ)をただひたすらに掘削(レペゼン)していく……他でもない徳生くんや透がふたたび回復するためには、そういう音楽こそが必要だとおもったのだ。

この箇所は本作の重心だ。ヒップホップはZ世代のゴスペルだ。そんなわかりやすく言いたくないけど、私はそのように信じて期待している。アメリカのインナー・シティでは構造的暴力に晒されながら若者たちがリリックを書いている。沖縄では伊志嶺のようなマイルド不良グループもリリックを書く。沖縄がヒップホップの拠点として存在感を示していることと、社会的な状況は切り離すことができない。

こうやって言葉にすると非常に月並みである。作中に挿入されるリリックも月並みである。ダサい。いいや、高校生のものだからそこは問うべきではない。けれども、いずれにせよ、歴史の呪縛を解き、自分自身の生を回復するためには、どうにかして自分で言葉を紡がなくてはならない。

おれらは敗者なんかじゃねえぞ刻まれてんのさこの胸に命こそ宝(ぬちどぅたから)のことばが、月ぬ走いや、馬ぬ走いさ! つねにこの胸に刻んでおけ歴史の大河と言霊、いちばん深い夜空が明けたらやってくんのはほのかなひかりと明日さ……

この箇所はリリックのサビとして、断片9で二度繰り返される。繰り返し、自分自身に希望があることを暗示するのだ。暗示は象徴表現であり、自己暗示は洗脳である。絶望するよりは遥かにマシな洗脳である。私はこの小説自体が、沖縄の現実を変えていく言葉として機能することを期待している。この小説にはその力があることを信じている。



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