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フェス、まぜそば、かえるところ

いっしゅうかんぶりに、長野に帰ってきた。
「帰ってきた」とするか「戻ってきた」とするか、悩んだけれどもやっぱりいまのわたしにとっての自宅はここなのだし「帰ってきた」とした。
しかし正直にいえば、つい一時間ほど前、厚みと重みが気に入っている3年連用日記の2023年(段を間違えていなければいいのだが)5月5日の欄には「戻ってきた」と記した。

この部屋に荷物を運び入れたのは4月3日のことだが、それから4月末までの間でここで寝泊まり(という表現をしてしまうあたり、まだここが自分のテリトリーになっていないことをひしひしと感じる)したのは20日あるかないかくらいだろう。

最初の週末は神戸、今回が初開催のフェスへ。
数ヶ月前、自分が長野に引っ越すことになるなんて微塵も想像して居なかった頃。折坂悠太が好きなわたしは情報解禁されるやいなや「春先のフェス!電車でいける!ほかのアーティストも豪華!いくしか!」と、道連れになってくれそうな友人に声をかけ、チケットも同伴者も確保していたのだった。

まさか、長野から向かうことになるとは。
まさか、まさか、折坂悠太(重奏)編成の一旦の結びのライブとなるとは。

当日朝同伴者と合流し、タイムテーブルを眺めながら「折坂悠太はなんとしてでも間近で見たい」「同伴者が乗り気じゃなかったら一人でも攻めよう」と思っていたら、まだわたしは何も言っていないのに
「ひとつ前のアーティストが終わったらそのまま場所取って、最前で折坂悠太みよう」
と、よーくわたしを理解っている同伴者の言葉。

その前の晩は、怒涛の引っ越し〜長野生活ファーストウィーク終えた足で高速バスに駆け込み約6時間かけて京都へ戻り、ベッドで数時間寝たものの早起き・電車乗り継ぎの神戸移動だった。つまり何って、新生活お疲れずっしりメンタル&ボディだったから「今日はちゃんとたのしめるだろうか」と少しだけ思っていたのだ。

やれやれ、情けないぜ。なんて情けないんだぜ。
気の置けない友人の心遣いに触れた途端、パサパサになっていた身体の内側にうるおいが戻るのがわかった。

折坂悠太まで、身体と気の向くままにあっちの音楽、こっちの音楽、身を委ねた。名前は知ってたしおそらく耳にしたこともあったんだろうけど、改めてちゃんと聴いて・見たものも多かった。
さらに飲食も充実していて、ふだん絶対食べないのに周りの人がズゾゾゾゾ啜るのが美味しそうすぎたまぜそばを、気付いたときにはちゃっかり抱えていた。中央に鎮座していた半熟卵にお箸をいれただけで思わずにやつき、口に運んだときにはため息がでた。
なお「はんぶんこ」と言って買ったはずだったが、食べざかり20代前半男子である同行者にぼちぼち持っていかれた。

とかなんとかやってたら、折坂悠太の前のアーティストのパフォーマンスがもう始まっているではないか。痛恨のミス!
万全を期すためにはお手洗いを済ませておくことは必須である。かろうじて目当てのアーティストが出てくるまで待機できたとしても、演奏中に尿意に耐えきれずその場を離れるなんてことはあってはいけないのだ。そしてそんな想像に怯えたくないのだ。リスクは最小限にすべきである。
しかし女子トイレの列というのは長く、進みも遅い。わたしが解放されたときには前のアーティストが終わってしまっていた。

ここで、同行者の存在である。
わたしが女子トイレ長蛇の列でうだうだしている間に「ちょっと端やけど」といいながらもしっかり2列目を確保してくれていたのだった。

おかげさまで、とても近くであの時間を過ごせた。
区切りの演奏ということもあって折坂さんはもちろん重曹メンバー全員が、全身全霊て音を出していた。4月初週、日も暮れて正直寒かったけれど、かれらの音楽はステージ上で熱く唸っていた。30分間の、4,5曲。経過時間はそんな長くなかったが、隙間はなく、ずっとこっちに向かってきた。
新生活お疲れずっしりメンタル&ボディを内側から、ほぐすというよりも叩き崩す、それが嬉しい、そんな音楽だった。

同時に。
音楽もさることながら、その同行者といっしょにフェスに行けたこと一日居られたことが何よりもわたしを癒やしたかもしれない。
ああいうのが、帰る、だ。


この度は読んでくださって、ありがとうございます。 わたしの言葉がどこかにいるあなたへと届いていること、嬉しく思います。