宛名のない手紙1-陰陽師0観ました-

お元気ですか。わたしは元気です。
最近トートタロットというものを購入しまして、大して扱い方も理解しないまま、気の向くままに使って遊んでいました。
色んな質問をしてみては、カードをひいてみたものの、あれはやればやる程訳が分からなくなる代物だなと思い、使うことをやめました。
その質問の答えが出たとしても、次の瞬間には、まるっきり変わっている。無常であるこの世界において、タロットカードを使いこなすには、わたしは気長に付き合えそうにないと思いました。
買って早々やめることにする始末。
何度こんなことをやってきたでしょう。
懲りずによくやるものです。

そんな矢先、知人から「陰陽師0」という映画を観に行こうと誘われたので早速行ってきました。
トートタロットという占いをやっていた矢先のできごと。
占いといえば陰陽師じゃありませんか。
劇中でも安倍晴明が言っていました。

あくまでわたしの意訳ですが、ありもしないことをあたかもあるように言っている占いなんか誰が興味持つかよ、みたいなことを。
真意を射抜かれたような言葉を浴びせられたようで、
もう今後、占いを語ることをやめてみようかなと思いました。
そう、わたしは以前、西洋占星術の占いをやっていたことがありまして。
あれは統計学ですね。
やめようとやめなかろうとどちらも同じことなので、さして重要ではないのですが。

映画全体としては、面白かったです。ハリーポッターみたいな雰囲気と、マトリックス的世界観を感じられるような作品でした。

主観、思い込みがそのまま現実になる。
それが各人にとっての現実であり真実となる。
真実は人の数だけ存在するけど、事実はいつもひとつだと。

そんなメッセージが盛り込まれていました。
そういえば、野村萬斎の陰陽師を観たことがないので、是非そちらの方も鑑賞してみたいです。

話は変わりますが、長い間何となく感じていることを、言葉で少しずつ表現してみようと思うことがありまして。是非聞いていただきたい。

子どもの頃からですね、「こういうものだ、こうでなければならない」という概念に対していつも「何故?」という思いが湧く人間でした。
それがそうである必要がある本質的な理由なんて本来ないんじゃないかって。子どもの頃から直感的に思っていたわけです。

けど今になってこの世界を見渡してみると、こうでなければならないがたくさんある。
そのこうでなければならないを、戦わずして破壊できることを、そして真に大爆笑することを、深いところでいつも望んでいるのです。
まるで喜劇のような世界観で、いつも生きていたい。
そんな世界観で生きていたら、深刻にはなりようがないでしょう。
なぜならば、「こうでなければならない」世界においてのみ、深刻さが生じるからです。
「こうでなければならない」と制限があるから、そうでない時、深刻さが湧いてくる。けどそれがそもそもなかったら、なんでも存在してよかったら、気難しくならないわけです。

仮に深刻になったり、腹が立ったり、嫉妬したり、自己否定したりする感情や思考が浮かんでいたとしても、その感情に浸っていること自体を深刻に捉えないので、存分に深刻そうにしますし、嫉妬しますし、怒りを感じますし、自己否定も存分にします。それ自体、何も深刻ではないし、否定するものも制限するものもないからです。
そういう風に、何を感じても考えても絶対に大丈夫な中で、色んなモードの自分みたいなものを体感していると、笑いたくなってくるんです。
クスクスと小さな笑い声。またやっているなぁって。
クスクスクスクス、その小さな笑い声が段々大きくなって大笑いしたくなる。その笑い声は、一体誰の声。

そんな風に、こうでなければならないをとことん外して、こうでなければならないと思っている思考や、湧いてくるどんな感情も存分に味わっていると、徐々に、全部が喜劇みたいに思えてきて、その劇場で自分というキャラクターが、演技していることが分かってくる。

頭で理解するのではなくて、全部大丈夫なんだってことと、ひとつになる。

なんだか好き勝手話していたら、手紙だということを忘れていました。
こうして綴っていると、とても落ち着くし、気持ちが良いのです。
今回はこの辺で切り上げます。
いつも聞いてくれてありがとうございます。
誰に宛てた手紙かも分からないまま、こうして綴ってみるのも、楽しいものですね。
それではまた。






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