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花の声を聞く 【小説・3】

(この作品には、PG-12程度の表現が含まれております)


鈴舟母娘は木造アパートの二階に住んでいた。人の気配があったが、呼び鈴を鳴らしても玄関は開かなかった。

秀(ひいず)はドアを叩き、
「いるんだろ?出てこいよ。うちで一緒に飯食おうぜ!」
気配が動き、ドアにもたれるようにしていさらが顔を出した。
「……いい」
「はぁ?」
こんなにやつれていながら意地を張る幼馴染に、秀は無性に腹が立ってしまった。

「秀もおばさんも……来てくれてありがとう。でも私お風呂は入れてないから臭いし、今日は……お母さんが作ってくれた……カレーもあるし……」
下を向いたままそう言ういさらの声は震えていた。

そんなの嘘だと思った。

「カレーかぁ」
食ってかかろうとした秀を、横にいたマサエは手で遮り、
「カレーもいいけど今夜はうちで鍋なんてどうかしら?」
ふわりと笑いかけた。

「……食べたい」

いさらのまるい瞳から大粒の涙がこぼれた。


この日の夕食はたっぷりの野菜と豚肉を煮込んだごま豆乳鍋だった。
その準備の間にいさらは風呂を使い、だいぶさっぱりとしたみたいだった。
この晩いさらは秀の家に泊まり、翌日にはマサエと一緒に児童相談所へ行くことになった。

秀が慣れない鼻歌を口ずさみながら風呂に浸かった後、軽やかな足取りで居間に向かうと来客を知らせるチャイムが鳴った。
こんな時間に誰が、と思いながら玄関の引き戸を開けると、そこに立っていたのは薄っぺらいグレーのTシャツに、紺色のキュロットスカートをはいた長身痩躯の女性——智也子だった。

彼女はいさらと似た瞳の端を強張らせ、伸び切った前髪の隙間から秀を見下ろした。

「…いさらは…?」
 

ほてっていたはずの背中にざわざわと鳥肌が立っていくのを感じた。

中秋の夜気を背負い智也子は微動だにしない。青白い顔の上を後れ毛がなびく。
秀はぎゅっと目をつぶり、すぐさま戸を閉めて居間へと走り出した。その音を聞きつけてマサエといさらが現れる。

背後から勢い良く戸が開く音と、
「いさらを返して!」
と言う智也子の叫びが響いた。

廊下の奥にいさらの姿を認めると智也子はよろよろと両腕を伸ばし、消え入りそうに震える声で娘の名を呼んだ。
間に立ちはだかろうとする秀をマサエがそっと押し止める。

「いさらは私の娘です…私が育てます…だから」

智也子はがくりと膝を折り両手で顔を覆った。

「いさらを返して…」

マサエの後ろに隠れていたいさらが、その声に呼応するように自分の母へと歩み寄っていく。
いさらが一歩を踏み出すたびに、床板がきしりと鳴った。

智也子の前で音が止む。

自分の許に戻って来た小さな我が子を、智也子は静かに抱き締めた。

「鈴舟さん、信じてもいいですか?」

マサエが言う。

「…はい」
智也子は確かに頷いた。

「もうこの子を、一人にはしません——」

いさらは母の胸に抱きつき、顔をうずめて泣いていた。


 翌日、幼なじみの死を秀に告げたのはマサエだった。

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