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花の声を聞く 【小説・終章】

(この作品には、PG-12程度の表現が含まれております)


いさらだ。

泣き腫らした大きな瞳が秀(ひいず)を睨み付ける。

時と、息と、胸の鼓動が、長い刹那停止した。

「バカ秀!なんで気付かないんだよっ」

いさらは怒鳴ってぶうっと頬を膨らませた。
氷のような緊張感は一瞬にして解凍した。

棒のように立ち尽くし全く動きを見せない秀に、目の前の幽霊は「プッ」と噴き出し、腹を抱えて笑い転げた。


「ザマァ見ろ、この前秀、ユーレーなんかいないとか言ってたでしょ。いるんだから、こうして…」


言葉の最後が湿り気を帯びていく。


「寂しくて…」
「いさら——」


秀は一歩、いさらに近付いた。
「ごめんな、俺…」
何一つおまえの力になれなかった——
いさらは首を振った。

「秀ん家でご飯食べてる時、すごく楽しかったよ。おばさんが真剣に私のこと考えてくれてたのも嬉しかったし」

でも結局おまえは死んじゃったじゃないか——
「だからホントは生きていたかったけど」

当然だ。十歳の女の子が、死にたいなんて思う訳が——
「秀?」

秀の目には、いつの間にか涙が溢れていた。

秀が慌てて目の水分を袖でこするといさらの表情がふと翳り、
「ごめんね…私が死んだせいで、秀達にはいっぱい辛い思いさせたみたい…」

「違う!」

秀の怒鳴り声が廊下中に木霊し、いさらの肩を掴もうとした秀の手が透けた虚像の中を泳いだ。

秀はその手を引き戻して強く握り締め、
「…おまえは何にも悪くないだろ。悪いのは、勝手におまえを道連れにしようとした——」
言い終わる前に、いさらがぱっと耳を塞いだ。輪郭だけの白い体が小刻みに震える。
「怖かった…」
「いさら?」
「怖かった…すごく。あの時、お母さん…」
「いさら!」

秀は言ってしまったことを後悔した。
実の母親に殺される瞬間——それはいさらにとって、最も恐ろしい記憶のはずなのに。

「お願い秀、聞いて…?」

いさらは震えながら秀に、痛々しい視線を送る。
「あたし一人じゃ耐えられない」

俺だってそんな話、聞きたくない。

こんなに怯えるいさらを見ていたくない。

今すぐこの場から逃げ出してしまいたかった。

一歩足を引いた時、供えられなかったダチュラが打ち捨てられたように横たわっているのに気が付いた。いさらが口を開く。

もう逃げる訳にはいかなかった。

「あの日、秀ん家から帰った後、お母さん言ったの。“パート、クビになっちゃった”って。あの人、いつも臆病で何にも自信なくて、“もう働きたくない生きていたくない”って言って。“あんたを育てるためになんでこんな思いしなきゃならないの?”って言いながら、あたしの首絞めたの。心も体も、すごく痛かった——」


吐き気が込み上げて来た。
 

あまりに理不尽で一方的な死の宣告を、少女は受けたのだ。その人の子供であり、その人に育てられていたが故に。

「でもお母さんは死ねなかったの。やっぱり死ぬのも怖いんだって。じゃああたし、どうして死ななきゃいけなかったの…?」

大人は勝手だ。
大人は子供のすべてを掌握し、守り切れるものだと思っている。智也子や日下部がそうだ。

彼等は子供を守り切れてなんか、ない。

秀は胃液をぎゅっと飲み込み、まっすぐにいさらを見た。

「いさら、もうジョーブツしろよ。いつまでもバカな母親のことで悩んでたって、苦しいだけだろ?」

「でも…」
「こんなところにいたってどうにもなんねぇじゃん」
「いつか皆、あたしのこと忘れちゃう…」
「大丈夫だ、俺は一生忘れない。お袋だって澪だって、きっと忘れたりしねえよ」
「…本当に?」
 いさらがぐすりと鼻を鳴らした。

秀は一際大きく息を吸い、腕を組んで言った。

「俺が嘘ついたことあるか?」

いさらが嬉しそうに、

「ない、ね」

懐かしい顔で笑った。

いさらの幽霊の噂が囁かれることは、もうなかった。


手を合わせ終わると、日光は西の空にわずかな夕焼けを残すのみとなり、墓地は既に夕闇に覆われていた。
急激な冷え込みに肩を竦め早く帰ろうと踵を返すと、その行く先に、人がいた。
細長い人影が無音のままに、いさらの墓の前——つまり今、秀がいる場所——までやって来た。

黒衣に身を包んだ、長身の女性だった。

彼女は秀の顔を見て一瞬目を見開き、すぐに視線をそらした。
申し訳のような外灯に照らされた白い顔を、秀は正面から見据えた。

智也子だ。

彼女はこの八年の間で殺人犯の刑期を終え、よその土地で社会復帰を果たしたらしいとマサエに聞いた。

過ぎてしまえば、八年なんて短かった。

こんな短期間で人一人の命など贖(あがな)えてしまえるものなのだろうか。ましてや洋々たる未来を生きることの出来た、罪無き命に対して。

智也子の横を通り抜けざま、秀は低く囁いた。


「よくあんた、生きていられるよな」


智也子の肩が、びくりと揺れた。

無力な子供が持っている唯一の武器。
ただ一言、言ってやりたかっただけだ。



翌年の命日、大学生になった秀が九回目の墓参りに訪れると、墓誌に刻まれた名前が一つ増えていた。

いさらの隣。

一年前の今日の日付。

智也子の名前だった。


(完)            

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