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2011年3月11日

2011年3月11日 金曜日

普段通りに会社に出勤した、春というにはちょっと薄ら寒い日。

この日の夜は友人5人ほどで、新宿超高層ビルの最上部にあるレストランでの飲み会を控えていて、さらに翌12日から山形県米沢の温泉宿に伴侶氏と一泊する予定で、帰りには宮城県の塩竈あたりで寿司でも食べてこようかともなんの気無しに考えていた週終わりの昼下がり。

14時46分、突然の大きな揺れ。

今まで感じたことのない強さと長さ。いったん収まった?と思うや否や、断続的に何回も繰り返す揺れには、心がひどく堪えた。

ざわつく社内。誰かがつけたテレビでは関東から北海道にかけて強い震度を記録した異例の地震だったこと、沖縄や海外にわたる太平洋沿岸の広範な地域に津波発生の危険があることを繰り返し伝えていた。

当時、社で広報を担当していた筆者は余震に怯え、今すぐ飛び出して帰りたいと思いつつも、仕事を続けなきゃと電話を前に待機。

さらに、通信が輻輳する前にと夜に会う予定だった友達に予定の中止を告げ、山形の旅館にキャンセルの電話を入れた。

伴侶氏や家族の安否確認も翌日にかけ順次行った。
(特に岩手沿岸部に住む従姉妹の動向は気になった)

当初は大混乱に陥った首都圏の状況がニュースの中心を占め、それに伴う報道機関からの問い合わせも数多かったが、東北の被災状況の深刻さがわかるにつれ仙台・盛岡・福島発の映像の時間が増え、反比例したように社の電話が鳴り止んだのは18時くらいだっただろうか。

そのまま社に居つづけた夜中、つけっぱなしのテレビに映し出される、無残な津波被害の様子に加え、長野県北部でも強い地震があったり、福島県では原子力発電所に異変があった模様との情報が入り、このまま日本が滅亡するんじゃないか?などと、過大な情報暴露に心を掻き乱されつつ寝ずの番。

結局、社から解放され帰宅できたのは、翌3月12日土曜日の午前10時過ぎだった。

帰宅に乗った電車は、運転再開され普通に動いていたが、車内の人々の表情は全然普通じゃなく皆一様に憔悴しきっていて、ことの重大さをさらに実感することになった。

このあとも震災に起因した電力と物流網へのダメージによる混乱は首都圏でも1ヶ月くらいは続いていたが、あまりにも大きな津波、そして原発事故の災厄の前では、取るに足らない事柄だったと今にしては思う。

それにしても、発災時刻があと数時間遅かったら、超高層ビルの最上部でさらに増幅された揺れを体験していただろうし、もう一日ないし二日遅かったら、旅先の東北から帰ってくるのにかなりの手間を要したばかりか、海辺で津波に遭遇した可能性すらあったわけで、筆者にとっても、人生の一つの岐路だったのは間違い無いだろう。

あの日から丸12年。トルコ・シリアの大地震をはじめ、さまざまな混乱が続くこの時代だからこそ、あらためて震災で亡くなった方々と現世に生きる人々の安寧を祈りたい。

合掌。

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