ソナチネ “むげん” について
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ソナチネ “むげん” について

Jun Ishikawa

2021/10/15に発表した「ソナチネ“むげん”」…この作品は中学生時代に構想したものを完成させた音楽であるが、自分の作曲家としての生き方を再考するにあたりこの作品の完成を必要であるように感じた。
よってこの作品はこれからの自分のために作った作品である。何かの礎とはなってくれるであろう期待を込めて作った音楽だ。

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そもそも、ソナチネとは?

まず、「ソナチネ」という概念を説明したい。
(理解してる人は次章に読み飛ばして構わない。細かいことに特に興味ない場合も読み飛ばしても構わない)

ソナチネとはソナタの小さい形のものを指す。
ソナタとは例えばベートーヴェンなどに代表されるクラシックの形式(音楽全体における段取りのようなもの)だ。それをシンプルに簡単にしたものがソナチネである。
「提示部」「展開部」「再現部」から成るが、大まかに次のような流れである。

•はじまってとりあえず終わる部分が「提示部」
•とりあえず終わってから色々動き出すのが「展開部」
•最初に戻って整えて終わるのが「再現部」

ソナチネといえばクレメンティの「ソナチネ 作品36-1」が有名だが、この曲はソナチネをとてもシンプルに説明してくれる作品である。

クレメンティ: ソナチネ

この曲のタイムラインは次の通りである。

■はじまってとりあえず終わる「提示部」
0:07-0:44
■とりあえず終わってから色々動き出す「展開部」
0:44-0:54
■最初に戻って整えて終わる「再現部」
0:54-1:11
(1:11以降は「展開部」と「再現部」の繰り返し)

ソナチネについて上記を聴いて雰囲気だけでも掴んでいただければ幸いである。

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ソナチネを選んだ意味 - ソナタという自由な牢獄

しかし「むげん」という音楽は結局のところそのソナチネを自ら破壊し、長大な幻想曲へと発展する音楽だ。
そもそもソナタという形式は、堅実なドラマを作りやすい性質から長きに渡り、何なら現代音楽に至るまで支配し続けた、クラシック音楽における重要な形式だ。
しかしながらソナタが作り出すドラマというのは、クラシックを聴かない人にとっては全く別の世界のコンテクストであり、ソナタの枠組みを理解しないとそれほど展開を楽しめない現実もある。
またベートーヴェン以降ソナタのやり方が飽和化していった近代ではもはや、展開を固定する牢獄となりつつあり、この打開として例えば今日の現代音楽とされるものが発生した。
エリックサティは「ソナチネ」をこうした不自由さの象徴として茶化している。次の曲は上記クレメンティのパロディとなっている。

サティ: 官僚的なソナチネ

ソナチネ“むげん”にそのような皮肉の意図はあるかと言われれば、半分くらいはあるとは言える。ただ、悪意というよりは、現代におけるソナチネの形骸化しつつある美しさ、すなわち博物館化しつつある距離感を認識しているがゆえの皮肉的な目線ではある。
これほどEDMやポップスが発達した時代において、クラシック音楽が今日の日本においてどのような立ち位置なのか、というのはその作曲法を勉強した自分にとっては非常に重要なテーマだと思っている。古典こそが美しいのであれば、すなわち博物館の石碑を観ることの美しさこそが重要ならば、過去の偉人を現代の演奏家が再現する事に意味があっても、わざわざいまを生きている人間がその分野で作曲をする必要が無くなってしまうからだ。
この距離感、離人感、現世から離れている状態を私はあえて受け入れる選択を取ることにした。その上で「現代日本にとってのクラシック」の印象そのままにただ素直にファンタジーを書くことにした。そうすることで、現実とはちょっと違う世界を描いていくSF物語を読み解くような、リアルとファンタジーの境目を実現することができると考えたからだ。
つまるところ、“ソナチネ”という題材を選んだのはクラシック(古典)という象徴をそこに担わせるためであり、その象徴を“むげん”に解体していくストーリーへと誘うためである。

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“むげん”とは

むげん、というタイトルは、無限、夢幻の両方の意味を込めている。そしてこの名は作曲者が昔書いたSF小説の名前に由来する。
心で考えた事が現実の形となって実現する“むげん”という物質が世界的に広がってしまい、徹底した管理社会が敷かれることになってしまった未来世界で、主人公が死んだ幼馴染に出会う物語である。
この物語は空の穴が時空間のねじれを端的に象徴する。主人公が何か予感すると空が渦巻いたりする。そして管理社会の中枢を爆破した結果、空に穴が空き世界が崩壊する。
楽曲“むげん”の映像でも空が渦を巻く効果が何度か挿入されるが、それは小説に由来する発想で空間のねじれを意味するのだ。
世界が崩壊した後も物語は続き、主人公たちは今度は全く違う役割を持って同じ世界に生まれ直すことになる。これもこの曲のつねに変奏し続けるスタイルの由来となる。
本楽曲が必ずしも小説の“むげん”と完全に一致するわけではないが、その精神は受け継いでいるとは言える。信じられていた世界もしくは虚構は壊れ始め、新しい生へと変容していくのだ。

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ソナチネ“むげん”について

ここまで説明したのはこの曲の周辺情報であるが、この曲自体の内容はシンプルで、ソナチネだったものが己の型を破って変奏し続ける幻想曲である。このため、「レードシラー」のライトモティーフがほぼ全てに登場する。
一つ誤解しないで欲しいのは、私は古典を解体するとは言ったがクラシック音楽を全く否定していないという点である。つまり、「己の型を破って」という文面から想起されるような破壊的なアヴァンギャルド性はこの曲には無い。実際は非常にマイルドな、むしろクラシック的な手法で解体していっている。
私はクラシック音楽の中でも例えばベートーヴェンやリストの後期やショパンの幻想ポロネーズやヤナーチェクの霧といった、幻想がただそこにあるかのような、魂が独立しているかのような音楽を好む。
おそらく、「ひとりで深くものを考える」要素がクラシックのこうした器楽曲には多い。
そして私もそういった「魂の独立」を目指しており、今作においてはそれを古典的なスタイルで行っているに過ぎない。

初めに私は「自分の作曲家としての生き方を再考するにあたりこの作品の完成を必要であるように感じた。」ということを述べた。
これはつまり、自分の目指す「魂の独立」への一歩になると思ったからである。
最終的にどのような様式に囚われる必要もない、否定する必要もない、個々の魂だけが伝わる世界になればいいな、と私は思っている。
ここまで多くのことを述べたが、それはこの曲をつくるがそれだけ私の人生にとっての小さくも大きな試みだったことを説明するためである。実際にこの曲を聴いて抱く感想、物語は自由なのである。だから徹底的に抽象的な映像にしているのだ。

石川潤: ソナチネ“むげん”
ピアニスト - 深貝理紗子

ソナチネ "むげん"のタイムライン

00:00 映像のオープニング
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00:20 提示部
01:30 展開部(少し異変が起きる)
02:38 再現部
03:08 再現部が壊れる
03:41 「永遠の歌」
04:44 スケルツォ的な夢の遊びのような部分
06:12 荘厳な歌 I 〜展開部に回帰
08:15 再現部のようだがやはり壊れている
08:26 <変容>壊れた再現部より始まるドラマティックな展開
09:37 荘厳な歌 II
10:39 孤独なテーマのくりかえし
12:09 <変容>の回帰、終止
12:59 偽の再現部
14:00 エピローグ(テーマの消失)

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