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わたしは「女は家で家族を守るべきだ」と育てられた。
今、私は息子に「家のことをやれて一人前」と育てている。
(あまり効果はない)

わたしは「ミルク礼賛」の時代の赤ちゃんだ。
わたしが子育てをした時は「母乳礼賛」だった。

わたしのこども時代、「学校に行かない」という選択肢はなかった。
今は「行かなくていいよ」という言葉が生まれた。

いつも人間という集団は、
ある意見の究極の先へと「落ちて」いく。
「これがいいのだ!」と突っ走り
みんながこっちに走るべきだと先導するものがあり、
あるとき、自分たちの後に
究極の反対意見が上から見下ろしている風景に気づく。

基本的に自分の意見を持たない私は
いつもこのシーソーを横から見ていた。

自分の意見を持たない、というよりも
運良く母乳がよく出る体だったから
それを使って赤ちゃんを育てた。
偶然にも赤ちゃんをかわいいと思う自分がいて
大きくなっていく我が子を愛おしいと思えたから
家にいる自分を選んだ。

そういう環境にいられたからできた、とも言える。
そういう環境にした、とも言える。

その横で、社会はシーソーのように
がたんがたんと交互に傾いていた。

専業主婦と働く主婦の対立はしょっちゅうあった。
どっちがいいかなんて答えは永久に生まれないのに。

ただただおもしろい現象だなと思って見つめている。
ある意見がどかんと出たとき
しばらく様子を見ると、必ず絶対反対の意見が出てくる。

人間はこうやってがたんがたんと文明を進めていくんだろうと思う。
いつのどの時代に生まれても、それは変わらないんだろうなあ。

ところでミスチルの「シーソーゲーム」という歌があったなと思って歌詞を読んだら、全く意味がわからなかった。
加齢による現象でしょうか・・・。


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