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雨がやむまで待ってみる

自転車で公園に行きベンチに座っていると雨が降ってきた。
いつもなら、①雨を避けて走りだす、②徒歩なら傘を出してその場を離れるか、③持っていなければコンビニで傘(高い確率ですぐ捨てることになる傘を)を買ってその場を離れるかする。

でも今日は、公園に雨を避ける”ひさし”があったし、遠くの空が明るかったので、雨がやむまで待ってみようと思った。

そして気づいた。

「こうして晴れるまで雨宿りをするのは、生まれて初めてだ…」

さっきまでいた親子連れの姿も、いつの間にか見えなくなった。

そのうち雨足が強まって、ひさし(ビニール製)が「パタパタ」と音を立てだす。公園の周りには、傘を差して歩く人(天気予報をちゃんとチェックしてたんだね)、帽子を深くかぶって走り去る人、濡れるのを覚悟したかゆったり歩く人…。自分もいつも選択している行動だ。

公園には自分ひとり。雨の音はするものの、しんと静まり返っている時間。いつ来るかわからない晴れ間を待っていた。

10分ほどで晴れた。日差しは暑いくらい。

「はじめての雨宿り」で気づいたのは、ひとけのない公園の静けさや、じんわりと水を吸う土の、アスファルトの、木の葉の、草花のにおい。

濡れた服が体にまとわりつき、道から雨水が跳ね返って靴にしみる不快や、買う必要のない傘を買わなければいという、言ってしまえば「小さな不条理へのいらだち」から、今日だけは解放されていた。

土のにおいと草花のにおい。

何年か前の自分の”不始末”を思い出す。世間からも否定され、自身でも自分を否定し、”土砂降り”の中を、逃げ場を見つけようと走っていた。でも、都合のいい傘も雨ガッパも売っていない。どんなに走っても、雨滴は容赦なく打ちつけてくる。

「やまない雨はない」などと、およそ心のこもらない能天気な言葉をかけてくる者もいたが、反発を覚えるだけだった。お前に何がわかるんだ。

雨はやむんだろう、でも”今”その雨がつらいんだ。「いつかやむ」なんてのんびり構えてはいられない。それは”雨に降られた者”にしかわからないが、その雨から逃れようと無理に走っても、傘を差しても、雨は追いかけてくる、苦しみは変わらない。

雨上がりのベンチに人の姿はなく、なんか得したような気になる。濡れたベンチに座れるわけでもないのに。

一休宗純(あの一休さん)が残した歌が、ふと脳裏に浮かぶ。

「有漏路より 無漏路へかへる ひと休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け」

(うろじ、は涙や鼻水、血を漏らす=煩悩に苦しむ生きた人、むろじ、はそれが無くなった死、あるいは悟りの境地、そこに帰っていくまでひと時が人生なんだそう)

雨はやむかもしれない、やまないかもしれない、わからないからそれには抗わず(どうせろくなことはないから)”ひさし”をみつけてその下でじっと音に耳をすまし、においをかいでいるのも選択肢のひとつだ。

ほんのひと時の雨にそれを学んだ。

蝶は花の蜜だけを吸って生きているわけではない。



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