2016_0510_155210-妻の荷造り

【甲乙の怪】夏山とコーヒー

冷泉さんは高校時代から登山部に入っていた事もあり、今でも暇を見つけては山に登っている。
数年前、夏休みを利用して実家近くにある山に日帰り登山を計画したのだが、目的地へ到着する前に天候が崩れてしまい、予定を変更せざるを得なくなった。残念ではあるが、山で無理をするのは禁物である。冷泉さんは予定を早めて下山する事にした。落ちてきた雨粒は、あっという間に音を立てて降り始める。
どこかに雨宿り出来そうな適当な場所はないかと、道を透かす冷泉さんの目に大きく張り出した岩場が見えた。小走りで岩陰に走り込んだ途端、背後で激しい雷鳴が響き、雨が勢いを増した。雨は一時的な通り雨だろうと考え、止むまで腰を降ろして休もうと振り返った冷泉さんは、そこに先客がいる事に気がついた。
初老の男性が、冷泉さんを見て軽く頭を下げて声をかけてきた。
「こんにちは」
「こんにちは。降ってきちゃいましたねぇ」
冷泉さんは相手の隣に腰掛けて、雨が止むまでとりとめもない世間話をして潰す事にした。相手は隣県に住む桑田と名乗り、早期退職制度を使って会社を辞めた後、若い頃から憧れていた山登りを楽しんでいるのだそうだ。
「いつか有名な高い山に登って、山頂でコーヒーを淹れて飲むのが夢なんですよ」
聞けば桑田氏は相当のコーヒー好きであるとか。
「実は、今日も持ってきているんですよ。いかがですか、一杯?」
桑田氏は荷物の中から水筒とカップを取り出すと、冷泉さんに差し出してみせた。冷泉さんは、ありがたく頂くことにした。
受け取ったカップに、桑田氏が水筒の中身を注ぐ。途端に強烈な異臭が彼の鼻を突く。カップの中には、ドロリとした泥水のような液体が揺れていた。驚いて相手の顔を見ると、桑田氏は自分用のカップにも同じように異臭のする液体を注ぎ、美味そうに口に運んでいる。その姿を見て、冷泉さんは喉元にこみ上げてくる吐き気を必死で堪えた。
桑田氏にバレないように、こっそりとカップの中身を地面に捨てる。カップの中身を飲み干した桑田氏は、満足そうに大きく息をついた。その口の端から、泥の色をした液体が一筋、顎の先へ向って流れていった。
「どうですか、もう一杯?」
差し出された水筒から漂う異臭が、鼻腔を刺す。冷泉さんは引きつった表情で手を振り、「いえ、もう……」と断った。しかし桑田氏は冷泉さんの言葉が耳に入らないようで、コーヒーについて喜々として語りながら、冷泉さんにもしつこく勧めてくる。そして自らのカップへ液体を注ぎ、それを飲み干す。
直前まで気のいい山仲間だと思って話をしていた相手が、途端に得体の知れない「ナニカ」に変貌していくようで、夏だと言うのに冷泉さんは全身が急激に冷えていくのが分かった。
「いいなぁ、やっぱり山で飲むコーヒーは美味いなぁ」
桑田氏は壊れたように同じ言葉を繰り返しながら、一人、液体を飲み干している。彼の顎の先からは、溢れた黒い液体がボタボタとこぼれている。そのあまりの不気味さに、冷泉さんはどうにかしてこの場所から逃げ出さなければと考えた。幸い、雨は小降りになってきている。このくらいの雨なら、走って山を下る事も可能だろう。
と、桑田氏がカップを口に運ぶ手を止めて、じっと冷泉さんを見つめた。
「帰ろうと……思ってるんですか?」
「え?」
「帰るつもりなんですね? 一人で帰るつもりなんですね? 私を残して、一人で、帰るつもりなんですね!? 私は帰れないのに、貴方は帰るんですね!?」
突然、桑田氏が尋常でない様子で叫び始める。狭い空間に彼の言葉が反響して、冷泉さんは思わず耳を押さえた。もうこれ以上は無理だ。傍らに置いてあった荷物を引っ掴むと、冷泉さんは岩陰から飛び出した。
ぬかるんだ山道を駆け下ってみれば、雨宿りをしていた岩陰は登山口脇の駐車場からさほど離れてはいなかったようだ。20分ほどで停めてあった自分の車まで戻ってくる事が出来た。

「山に登るようになってから、あんなに怖かった事は初めてです。帰ってきてから、分かる限りの情報で調べてみたんですが、あの山で3年ほど前に『桑田』という人物が行方不明になっているようです。……きっと、まだ、あの山を彷徨っているんでしょうね──」

冷泉さんはこの経験をしてからも、毎年夏になると件の山に足を運んでいるそうだ。その際には必ずコーヒーを持っていき、岩陰に供えている。「桑田氏」とは以来、遭遇した事はない。