note百物語2017

見ている

アパートの向かいの棟、1階の若夫婦が引っ越した。
昼間、俺が仕事に行っている間に引っ越しをしたらしく、帰ってきた時にはガランとした室内が窓から見えるだけだった。
夜になり、自室の玄関先でボンヤリと煙草を吸っていた。
部屋にニオイが篭もるのが嫌で、室内ではなく玄関先の階段スペースで喫煙するのが日課になっている。
ここからだと空っぽになった1階の室内がよく見える。
もちろん、普段はカーテンがかかっていたし、積極的に中を覗こうなんて思ったこともない。
ただ、いつも風景の中にポッカリと切り取られたように口を開けている、真っ暗な空間に視線が引き寄せられたと言ってもいい。
何の気なしにボーっと部屋の中を見つめていると、表の通りを通過した車のライトに照らされて、一瞬、妙なモノが視界に飛び込んできた。
白い……いや、薄汚れて茶色くなった布みたいなモノ。
あれか、掃除に使った雑巾か何かか?
でも結構ヒラヒラしていたように見えたぞ。
思わず目を凝らす。
ちょうどタイミングよく、大型トラックが通りを通過した。
その強いライトの光にさらされて、室内ははっきりと俺の目に映った。
部屋の押入れ。
襖は全開になっており、2段に仕切られた上下の空間。
その片側に寄せられた襖により掛かるようにして、押し入れの上の段から身を乗り出し、顔を突き出している女性の姿。
白かったと思われる着衣は、汚れと経年劣化により茶色く変色している。
脂の抜けきったボサボサの髪が、動かない空気の中で蠢いているように見えた。
ほんの僅かな時間のはずなのに、なぜか俺にはハッキリと見て取れた。
通りを立て続けに車が通過する。
もうやめてくれ……。
部屋に入ってしまえばいいのだが、その時にはそんな簡単な事が思い浮かびもしなかった。
ビデオのコマ送りのように、空室の中が照らし出される。
その度に、押し入れの女がこちらに頭を動かしているのが分かった。
ゆっくりと、俺のいる方へと頭を動かしている。
あと1度室内が照らし出されたら、確実に俺は女の顔を見てしまう。
そう気付いた時、俺は弾かれたように足を動かし、自室へ飛び込んで鍵を掛けた。
このアパートにあんなモノがいるなんて……いや、きっと俺の見間違いだ。
何かの影を見間違えたに違いない。
玄関ドアに背中を預けて、俺は大きく息をついた。
そしてふと思い出す。
あの部屋、先月に越してきたばかりじゃなかったっけ?
どうしてこんなに早く引っ越していったんだろう?
もしかして……。
アレが原因なんじゃないか。
アレは移動するのか?
見ていた俺を認識したのか?
だとしたら……。
もう一本煙草を引き出してくわえながら、心を決めた。
「なるべく早く、俺も引っ越そう」