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鹿が考えること

ここはとある国の森の中。
そこに一匹の鹿がいました。鹿の毎日は、規則正しく起きて、角の手入れをしてからはじまります。それから食事をとり、散歩し、本を読み、寝る前に少しだけお酒を飲みます。たまに友だちとも遊びます。

来る日も来る日もそれは繰り返されます。春が来て、夏毛に生え変わり、秋になり、厳しい冬が来る前に冬毛に生え変わります。毎年、少しずれたりもしますが、ほぼ同じような周期です。

冬のある日、しんと冷えた空気に自分の吐く息が白くなるのを見て、ふと鹿は考えました。今この目の前にある空気は昨日の空気とは違うのだろうか?と。

それは、今まで考えたこともなかったことです。何でそんなことを思ったのか、鹿自身にも不思議でした。ただ少し、思い出したことはありました。

いつだったか、林の中を散歩していた時に、一本の太いブナの木を見つけた時の事です。こんなところにブナの木なんてあっただろうかと思いながらも鹿はブナの木に向かって歩きました。幹も太く枝は空に向かってどこまでも伸びています。長いこと、ここに立っているのでしょう。それから鹿は同じ場所に立ち続けているブナの木は今何を思うのだろうかと考えたのです。

それから毎日、林を抜ける度に何となくそのブナの木のことを思いました。不思議と頭から離れなくなっていたのです。
ただ来る日も来る日もブナの木があった場所には辿り着けません。友だちに聞いてみても誰も心当たりがないということでした。

鹿はまたあのブナの木に出会えたなら、この胸のもやもやが晴れるだろうと考えました。それからです、鹿はいつもは通らないような道を選んでみたり、少し遠くまで出かけたりするようになりました。もちろんその間も角の手入れは欠かさずに行いました。

再び季節が巡って来ました。そう、例のブナの木を見かけた季節です。その日、鹿はまたいつもの林を歩いていました。するとどれほど探しても見つからなかった、例のブナの木が目の前に立っているではありませんか。

『あなたを探していました』と鹿はブナの木に語りかけました。
『いつぞやお見かけしまして、その時から何か、こう、胸のどこかで何か引っかかっていたのです』
鹿の足元を風が気持ちよさそうに通り抜けて行きます。ブナの木は何も語りません。

『この頃、私は思うのですが、毎日通っている道にも変化があって、季節によっては、新芽が出ていたり、落ち葉が落ちていたりします。もちろんあなたもご存知と思います。そして流れる空気も違います。今日のそれは昨日のそれではありません。しかし私たちはそんな日々に少し退屈してくる。そんなことがあります。そんな時、私は用事を入れてみたり、普段行かない場所に行ってみたりするわけです』

鹿はブナの木の側にある大きな石に腰掛けました。少し立っているのが疲れたのです。
なぜだか、このブナの木を昔から知っているような気持ちになりました。

『私はあなたを探しながらあちこち行きました。普段行かない場所には、新しい空気が流れていましたし、あまり見かけない生き物にも出会えました。少し心がいきいきしたのを覚えています。出会った方に、私の角を褒めて頂いたこともあります。あなたに再び会えてわかったことですが、私が探していたのはあなたではなかったようです。私は何を探しているのでしょうか……。私は思うのですが、何事も気づいた時がその時なのではないでしょうか。求めているものはカタチのないものかもしれない。でもきっとそれは前に進むにつれて徐々にカタチを成していくのでしょう。不思議な事ですが、その時になってはじめてそれだとわかるのではないでしょうか』

鹿とブナの木の側を誰かが通り過ぎたような気がしたが、気のせいかもしれなかった。さっきの風かもしれない。誰かにこんなに長く喋ったのはずいぶん久しぶりのことだった。錆びついていた歯車は重い腰を上げ、少しずつだが滑らかに回転数を上げていった。

『それにしてもカタチのないものを手に入れるのはとても難しいです。選択を迫られる時もあるし、いつもと違うことをしなければならない時もあります。そんな時に後押しをしてくれるのは少しの勇気だと私は思っています。小さな勇気もあれば、大きな勇気もあります。人によってまちまちでしょうが、私はそれをそっと引き出しから恐る恐る取り出すのです。もちろんそれは他所様から見れば大したことではないのかもしれません。しかし、私たち個人の存在はどこまで行ってもそれきりです。似通っていても、同じものは一つとしてない。だからこそ、今、引き出しから勇気を取り出す私が、明日の私を作り上げていくのではないでしょうか?』

当たり前だが、鹿がいくら語りかけたところで、ブナの木はひたすら黙っていた。嫌な感じの沈黙ではなかった。ふわっとした草木の香りが辺りに漂い、鹿はブナの木からの加護を受けたような気持ちになった。夕陽が木々の間から差し込み、足元の苔は宝石のように煌めいていた。まもなく、この森に今日も夜が訪れるだろう。

鹿はそこまで話し終えると、いつもの帰り道を通りそうになりつつ、少し外れ、遠回りをして帰路へ向かった。ブナの木に向かって話したことを繰り返し考えていたが、自分自身もまだうまくその求めるカタチを捉えられていないような気もしていた。ただ少しだけ胸の辺りがスッとしたのは確かだ。顔を上げると、雲一つない空に半分の白い月が浮かんでいる。

鹿はその月を眺めながら、明日起きたら家の外でコーヒーを淹れてみようと思った。朝の森ほど清々しく、気持ちいいものはないのだ。

もちろんその後で、ちゃんと角の手入れもするつもりだ。そしてそれからブナの木におはようと言いに行こう。そう思った。

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