「ニーティスト」

#ニーティスト

#創作大賞2023

その頃、スマホやパソコンを所有し、ネットに接続できる環境にある一般人の間では、まるで日々の挨拶のように、ニート、ひきこもりと呼ばれる人たちの行動が、話題、スレッドタイトルになっていました。


 ニート、ひきこもりと呼ばれる人たちは、働きもせず、実家でただ飯を食べ、一日中ネットに貼り付いているだけの怠け者。


 「世間一般の常識」とやらに囚われ、子供部屋おじさんとか、他人のあら探しに熱心で、ひどい蔑称で人の心を傷つけ、勝ったような気分で馬鹿な自分の不安を鎮める。


 そんな「子供頭大人」に、誰もが憲法で認められた職業選択の自由に則り、今現在、たまたま「無期限活動休止中」の善良な一般人が。


 憲法で定められた基本的人権を無視した、ニートひきこもりなどといった差別用語で呼ばれ、犯罪者予備軍、税金の無駄遣い予備軍は、今すぐ行政が介入して強制労働させろ。


 まるで自分がヒトラーか金正恩のような大人物()でもあるかのように、上から目線であかの他人にヒステリー発言をする子供頭大人たち。


 でも、本当にそうなのでしょうか?


 どんな境遇や立場でも、私たちには自分の人生を生きる権利があります。


 子供頭大人のいうことなど聞く必要などないのです。


 ではどうしたらいいのでしょう?


 現実には、魔法や便利な道具などはありません。


 ですが私たちには知恵や考える力があります。


 アーティストがいるなら、ニィーティストがいてもいい。


 それではあるニィーティストの、決して格好良くはない、悲しくて必死の闘いと覚醒を、これから見て行きましょう。


                         1


 その日、内海啓一くんは激怒していました。


 啓一くんは今年、35歳の実家住まい。


 「ネットビジネス業」としていると、自分では主張して譲らない、ぽっちゃり体型で、頭髪のさびしい青年です。


 167センチ80キロの啓一くんは、20キロ体重を落とし、髪も人並みにあれば、当節で言うイケメンで通ったかもしれない残念な35歳。


 どこかで人生を誤らず、きちんと学校に通って勉学に励み、定職に就いていれば、生身の女性ともあったかもしれない。


 ですが現実はままならないもので、啓一くんは今日も今日とて、ありあまる男の精気を、アニメ柄のプラスチック性筒に没入させ、ぱふぱふぱふ、させている真っ最中でした。


 啓一くんは左手に持った、スタイリッシュな幼女の絵が表紙の、一般書店では見掛けない、大人漫画雑誌をがん見しつつ、


「クソ! クソ! クソ!」


 被弾したとでもいうのか、無防備で油断しているときに、いきなり背後から理不尽で、無礼な濡れ衣を着せられた。


 やり場のない、特別不快な精神状態で猛っていました。


 啓一くんが平日の昼間に、自室で男の欲求発散に励んでいると、それまで同じ速度で動いていた、性筒の動きが風雲急を要し、


 ばふばふばふ!


 動きも早まり音も変わると、啓一くんは獣のような咆哮を発して背を丸めます。


 手の動きを緩やかにして止めると、己から性筒を抜いて穴を上にし、小学生で時が止まったような、今はパソコン台の古びた勉強机に叩きつけ、窓から敵を睨み付けるように外を見るのでした。


 啓一くんは大人漫画雑誌を投げ捨て、上を破いた箱に黒い爪の野太い指を入れ、ティッシュをつかんで己を清めると、同じ処理物が山積みのゴミ箱に投げつけ、床から異臭がする短パンを拾って履く。


 何やら秘策でもあるように性筒を見ると、啓一くんはポテトチップスの特大袋に手を突っ込み、激怒を過食で静めるように、気が済むまで貪り食うのでした。


 さて、身体が満たされた啓一くんは、いつものように額装された壁の女神をうっとりと見上げます。


 平本摩耶19歳。


 元々はジュニアアイドル出で、現在の本業メインは歌手ですが、その傍ら深夜アニメの声優、グラビアでは見事なビキニ姿をさらすことも辞さない、人気急上昇中のクールジャパンビューティー。


 どこか境界線上を漂う、危うい天然さが魅力の彼女、通称まーや19歳が、啓一くんは大好きなのでした。


「まーやごめん、男には抜かなきゃならない時もあるんだ。でも君では抜けない。なぜって君は男の公衆便所じゃない。俺の、いや僕の、生涯ただ一人の女神だからさ!!」


 14歳のデビュー以来のファン、古参がち勢の矜持、プライドを胸に宣言すると、啓一くんはベッドに横たわり、16歳で解禁になった、ビキニ姿で口づけを求める顔が印刷された、まーや抱き枕にひしとしがみつくのでした。


                       (^_^;)

 

 ひとしきり、どうにもならない現実に耐えた啓一くんは、今日は天気もいいので外出することにしました。


 外に出るの?!


 待ってください、啓一くんは「ネットビジネス業」です。


 俺はニート、ひきこもりとは違う、そう自分に言い聞かせているうちに、暗示が本当になった気がし、ネット以外で、他人から職業を訊ねられることもない今。


 本業のために外に出るのは、ごく自然な行動なのです。


 部屋の鍵を閉め、無防備に下に降りて行った啓一くんを待っていたのは、階段下の居間で、今までにこやかに歓談していた、明らかに自分を誤解している一般人たちでした。


 小学生の頃、田舎に、親戚の家に馴染めず、隅で叔母さんの前掛けに顔を埋め、めそめそ泣いていた弟をしり目に、採ってきた山菜を保夫叔父に自慢し、釣ってきた川魚のさばき方を教えてもらった、まだ一般人との快活な交流があり、時がとまっていなかったあの頃。


 懐かしくも切ない思い出が、啓一くんの脳裏を苦く横切ります。


 時は流れ、すっかり年老いた保夫叔父は、変わり果てた現在の啓一くんを見ては一方的に哀れみ、

 (どうしてこうなってしまったんだ、そうしてこれからどうするつもりなんだ..)


 啓一くんを勝手に人生の負け組、社会不適合者、無職のひきこもりと頭から決めつけ、今にも涙をこぼしそうな悲しい目を投げかけます。


 70歳をとうに越え、総白髪を七三に分け、今は年金暮らしの父修二も、突然現れた、予期せぬ啓一くんの姿に困惑、当惑の色を、銀縁眼鏡の奥の目に浮かべています。


 というのも、いつもの啓一くんなら、常に家への来客には神経を尖らせ、決してこのような失態を犯さないからです。


 「あのせい」で、俺は平常心を失い、また誤解を受け、無駄な恥をかかされた..


 昨日からの激しい怒りで、注意力が散漫になり、啓一くんは外の音に気づかなかったのです。


 やられたらやりかえす!


「おい、啓」


 何か意図、もしくは決意があって出てきたと、いちるの望みを賭けた父修二は、懸命に長男に問い掛けますが、その声は、無言で背を向け、自室に引き返す啓一くんには届かないのでした。


                        (^_^;)


 二階に戻り、部屋の鍵を開けて中に入り、また施錠すると、啓一くんは性筒の乗った机に向かいパソコンを立ち上げます。


 「ネットビジネス業」ですから、インターネットは得意でも趣味でもなく、もはや命といっても過言ではありません。


 お気に入りというより主戦場、己の存在意義を賭した掲示板を開くと、啓一くんは未知なる闘いの相手を探します。


 自分の意に沿わない、正反対の意見の持ち主を、口喧嘩無敵の特技で、完膚なきまでにやっつけられたらこの胸もすくだろう。 


 ですが、今は平日の昼間。


 掲示板にいるのは、殺気だった無職、猛者ニートたちばかりです。


 ここは勝ち負けより、昨日からの不愉快の連鎖を絶ちきり、やり場のない怒りを中和させる方が得策。


 啓一くんは書き込めるトピックス一覧を注意深く見て回り、歌が上手いわけでも、演技が秀でているわけでもないのに、何故か地上波で重宝され、最近ではワイドショーのコメンテーターとして、したり顔で政治問題まで口を出すアイドルタレント。


 まだ20代の彼に対する能力を疑問視した、嫉妬混じりのトピに目を止めます。


 ですが、ただ学歴や知恵の足りなさを直球で罵倒すると、底辺がやり場のないひがみを、負け犬として吠えていて情けない。


 誰でも自分より下に見たい、同類ばかりがひしめく掲示板ですから、どこから折れて尖った匿名の刃が、啓一くんを刺しにくるか分かりません。


 本音をいえば、運がいいだけで美味しい思いをしている、不細工な年下が、啓一くんが密かにいいなと思っている女子アナウンサーと、夜の親密写真を撮られたのが心底悔しい。


 それだけなのですが、そこは男の我慢。


 現在のテレビメディアの腐敗、芸能事務所との癒着、その弊害を、まるで組織の最高権力者であるかのように断罪し、その恩恵を受けたタレントの身分不相応を容赦なく叱る。


 啓一くんの掲示板の作法を守った、スタイリッシュな書き込みに、日本中のどこかに潜んでいる同類たちから、同意、賛同のレスポンスが追い掛けて来て、啓一くんのささくれた心をひと時和ませます。


 その後も、不倫を開き直り、形だけ謝罪した女性タレントを、下品なあだ名で蔑んだりなど、時を忘れて夢中で書きこんでいると、窓の外で動きがありました。


 足音を立てずに窓に忍び寄り、レースのカーテン越しに下を見ると、軽トラックで帰る保夫叔父を、父修二が見送っています。


 啓一くんは音楽プレイヤーを引ったくると部屋を出て施錠し、足早に玄関に向かいます。


「散歩か」


 父修二と鉢合わせましたが、これは計算の上です。


「これ、叔父さんが何かの足しにって」


 保夫叔父は、ただ哀れむだけではなく、毎回気持ちを形にしてくださるのです。


 啓一くんはサンダルを突っ掛けると、父修二が差し出したポチ袋を引ったくり、無言で外に出ます。


「啓一、風呂ぐらい入れよ」


 しかし、啓一くんは背を向けたまま、返事もしないのでした。


                    (^_^;)


 なんの変哲もない近所の歩道を、啓一くんは普通に歩いていました。


 啓一くんの住む町は、無人島でも限界集落でもないので、往来には人通りというものがあります。


 啓一くんの向こうから、高齢の御婦人が一人で歩いてきます。


 御婦人は、まーやが声優を勤めた、極彩色のアニメ柄Tシャツに、遠くからでも匂いそうな汚い短パン、素足にサンダル履きの啓一くんの、個性的かつボリューミーな姿を認めると、本能的に持っていたバッグを両手でひしと抱き、恐怖の表情で反対側の歩道に走り去ります。


 啓一くんが同じ歩道をそのまま進むと、また対抗してくる御婦人と出くわしました。


 今度の御婦人も啓一くんを見ると、それまでの無防備な態度を一変させ、携帯電話を取り出して耳にあて、いつでも通報出来る態勢を取り、決して啓一くんから目を離さず、早足で反対側の歩道に走り去ります。


 行き交う女性が、全員啓一くんから強盗、暴力被害に遭う想定で、一人残らず逃げ去って行く。


 啓一くんは職務質問には修業を積んだ達人マイスターですが、それ以外で警察のお世話になったのは、結局、見つからなかった自転車の盗難届を出した時ぐらいです。


 無論、前科や逮捕歴などはありません。


 俗世間、一般人というのは、ネットビジネス業と犯罪者の区別もつかない、近視の間抜け揃いなんだなあ。


 心中、苦笑したところで、胸に連続してボディーブローを打たれたような気分で、傷ついた心は癒えません。


「いらっしゃいませ、こんにちわ!」


 チェーンの大型古書店に入店し、さて背取り(安く仕入れて転売で儲けること)を始めようと棚に目をやると、店長に命令された下っぱのバイトが、啓一くんから見える位置に急いで駆けつけてきて、


「いらっしゃいませ、こんにちわ」


 もう一度、棒読みでマニュアルをいい、棚整理を始めます。


 外を歩けば強盗犯か暴力魔、店に入れば万引き犯扱いと、息つく暇もない「ネットビジネス業」の啓一くんの外出。


 人間は外見ではなく中身。


 理想はそうですが、現実は非情で不公平です。


 分かってはいても、たかがバイト風情に下に見られ、しかも自分がどれだけ啓一くんを不快にさせたか?


 気づく心もない、ばか面のバイト店員に殺意を覚えながら、それでも啓一くんは100円均一コーナーを、なめ回すように見て回り、ネットで1000円くらいで売れそうな本、24時間営業の総合店で200円で買い取ってもらえるコミック、計4冊をレジに出しました。


 保夫叔父がくれたポチ袋は、小学生に人気のアニメ柄で、中からお札を引き抜くと、期待値の半額、5000円札が出てきました。


 啓一くんが思わず舌打ちすると、似たようなキモオタキャラを揃えた店員の中で、一番年長の店長らしきレジのおじさんが、啓一くんを総合的に見下して、あからさまに微苦笑して見せます。


「お売りいただける本が」


 啓一くんは口上を最後まで聞かず、袋を引ったくって荒々しく店を後にしました。


                     (^_^;)


 外に出ると日暮れて空は夕闇。


 たとえ夜の闇に包まれたところで、「ネットビジネス業」に対する、世間一般の人の不審者扱いが変わることはありません。


 むしろ、扱いがより広く、深刻になりますので、啓一くんも足早に家路を急ぎます。


 家が見えてきて一息ついた啓一くんが、いつも足を止める場所があります。


 近所の小公園。


 そこには、日が落ちるのを惜しむように、夕闇の下で懸命に遊ぶ、子供たちの姿がありました。


 啓一くんは物心ついたときから今日まで、同じ町、同じ家で過ごしてきました。


 小学生の頃は、今はもう散り散りになり、連絡を取り合うこともない近所の友だちと、この公園で日が落ちるまで夢中で遊んだものでした。


 あれからどれだけ年月が立っても、この夕闇に染まった公園をみると、唯一、楽しかった日々が、まるでつい昨日だったように、啓一くんの心に甦るのです。


 あの頃も今も、自分の気持ちに大した変わりはないのだから、あの子たちの仲間に入れてもらえないだろうか?


 叶わぬ願いにため息をついた啓一くんの顔が、にわかに曇り、般若のように硬くなります。


 公園の隅で、「町内会自警団」なる腕章をつけた婆の一団が、啓一くんを汚いもの、犯罪者扱いの目で見ながら、ひそひそ話をしているのです。


 あかの他人のよその婆に、勝手に犯罪者扱いされる覚えはない!


 啓一くんも負けずに婆たちをにらみ返します。


 座の中心にいるのは、啓一くんのお向かいの家に住む、町内会長、殿塚冬子さんです。


 名前からして偉そうな、六十代後半とおぼしき、狐か妖怪のような、啓一くんに負けず劣らずの怪異な容貌の婆が、一歩前に出て、啓一くんを厳しい目で見据えると、正義の味方顔でスマホを耳にあてるではないですか。


 啓一くんは顔を歪めて婆たちに背を向け、全身に悔しさをにじませながらその場を離れました。


 以前、同じように一歩も引かずににらみあっていると警察がきて、れっきとした「ネットビジネス業」の啓一くんは、無職、ひきこもりの犯罪者予備軍として、名誉毀損されたあげく、騒ぎを聞き付けた父修二が、


「確かにうちの子はおっしゃる通りだが、犯罪を起こす度胸なんてないですよ!」


 割って入っては、とんちんかんな擁護をし、高齢化が著しい町の公園で、暇な爺婆の野次馬に取り囲まれ、啓一くんは一躍近所の「有名人」になった苦い思い出があったのです。


                       (^_^;)


 家に戻ると、父修二と母房代が、農家の保夫叔父がくれた野菜の煮物などの、質素な夕食を取っていました。


 啓一くんは「ただいま」でもなく、両親の横を無言で通りすぎると、二階に上がり自室の鍵を開けます。


 ドアの横にはお盆を乗せる台があり、今夜の夕飯。


 皿に山盛りの唐揚げ、ポテトサラダ、丼に大盛りのチャーハンといった、啓一くん好みの別夕食。


 それに毎月の「自宅警備」に対する報酬代わりの、「啓一さん○月分生活費」と、母房代の字で書かれた銀行の封筒。


 それらが載ったお盆を持って部屋に入り、机に置いて施錠し、おもむろに封筒の中身を確認します。


 2万円。


 毒母の絵図で、気がついたら35歳の今も実家住まいで、ネット以外社会との接点もなく、それがすべて自分の怠けぐせのせい。


 冤罪、汚名を着せられた代償として、月二万円が妥当な金額、小遣いなのか、別夕飯同様、一般人には理解出来ないでしょうが、是非はともかく、これが啓一くんの人生、日々の現実なのです。


 啓一くんは音楽プレイヤーを出して充電コードを挿しました。


 「巡回ルート」に、スカートを短く履く伝統のある、ネットで有名な女子高があり、生足を見るのは大好きなのですが、JKたちに心ない暴言を浴びせ掛けられるのが切なくて、外出にはまーやのアニソンが欠かせないのです。


                        (^_^;)


 深夜。


 新聞配達のバイクが、たった今、走り去った後なので、明け方近くでしようか。


 黒い影が啓一くんの家の前を行き来し、暗躍しました。


 黒い小太りの影は、そっと家に入り、足音を殺して二階に上がり、啓一くんの部屋に滑り込みます。


 明かりをつけることなく、パソコンのマウスを押すと、浮かび上がったまーやの壁紙に、スキーマスクの男がその姿を現します。


 男がスキーマスクを脱ぐと、中の人はこの部屋の主、啓一くんでした。


 啓一くんは、「一仕事決めてきた」といわんばかりの上機嫌な顔で、机の下にあるワンドアの専用マイ冷蔵庫から、コーラの2リットルボトルを出すと、喉を鳴らしてらっぱ飲みします。


 啓一くんはその後も興奮した様子で、夜が明けるまでパソコンにむかい、常駐している掲示板に張り付いては、


「はい論破」


 等、キーボードを叩きながらブツブツいってましたが、午前6時を過ぎて外が明るくなると、パソコンを消して立ち上がりました。


 啓一くんは、黒カーテンを開け、レースのカーテンにすると、なぜか外を見つめて、窓からはなれません。


 しばらくすると、お向かいの家の玄関ドアが開き、寝ぼけ眼の殿塚冬子さんが、何の危機感もなく出てきました。


 冬子さんは朝刊を取ろうとポストを開けて、見慣れないプラスチック製の、真っ白い筒を発見しました。


 なんだろう?


 冬子さんがうっかり持ち上げ、下から筒を見上げたところ、カッターで切り込みを入れ、中身が出やすく細工した筒から、異臭のする糊のような液体が、どろどろと大量に溢れ出て、冬子さんの顔や寝巻きにかかりました。 


 冬子さんはきょとんして、その液体を指ですくって見てみました。


 それはこの日のために繰り返し使用し、証拠隠滅のためにアニメ柄のラベルを剥がした、啓一くんの部屋にあった性筒でした。


 冬子さんは、今、己の顔や身体にかかった液体が、いったい何か分かると、昨日の正義の味方顔はどこへやら、断末魔の悲鳴を上げ、意味不明の絶叫をすると、気でも違ったように取り乱しました。


 朝刊でごしごし顔をぬぐい、急いで汚れた寝間着を脱ごうとし、コントのようにつまずいては、顔面を庭石に強く打ち付けます。


 啓一くんは、その一部始終を二階から見下ろし、ここまで上手くいくとは、やはり因果応報、自業自得というのはあるのだな。


 大満足の表情で拳を握るのでした。


 三十分後、殿塚家前に救急車が横付けされました。


 夫の驕志氏の肩を借りた、レインコートを着て、流血した額をタオルで押さえ、萎れた顔の冬子さんが救急車に乗せられ、病院へ搬送される姿を見届けると、啓一くんは鍵のかかる机の引き出しを開けます。


 中から町内会の回覧板に挟んであった手書きの注意書を取り出すと。


「平日の昼間に町内を徘徊する不審者、(※小太り、アニメ柄シャツ着用)、に対する不安、恐怖の訴えが複数あり、警察に巡回強化を要請しました。 町内会長 殿塚冬子」


 啓一くんは憤怒の形相でその紙をびりびりに破り捨て、これでもかと足で踏みつけます。


 ハヤタ隊員は、ウルトラマンから命を借りているのだから、正義のために戦う義務がある。


 でも俺は、誰にも借りはない。


 授かったこの命をどう使おうと、誰の指図を受けるいわれもない。


 だから、俺を勝手に犯罪者扱いにして、国や法律で取り締まれ。


 人として他人を敬う気持ちがない、お前のような奴はもう同じ人間じゃない。


 人間の姿をしたゴキブリとドブネズミが一緒になった害獣だ!


 人を人とも思わない、無礼な行動を取る輩に容赦はしない。


 だからって害獣退治に、人としての正義を振りかざし、サツのお世話になるほど、俺は馬鹿でもガキでもない。


 それが俺、内海啓一だ。


 いじめを苦にし、13歳で不登校になり、そのまま中学を中退し、気がつくと「ネットビジネス業」の他、職

歴がひとつしかないまま、35歳になってしまった自分。


 いじめになすすべなかった頃ととは違い、自分も少しは精神的に強くなった。


 啓一くんはまーやのライブDVDをセットすると、サイリュウムを二本持ち、静かに頭を垂れ、精神統一します。


 そうして毅然と顔をあげると、愛らしいまーやがリズムを取るテレビに、喉も裂けよと叫びました。


「まーや帝国民No.1の男、いきまーす!」


 啓一くんは、まーやの歌に合わせて、オタ芸と呼ばれる独特のダンスを、切れ味鋭く踊ります。


 全力で勝利のダンスを踊りながら、啓一くんは何故か泣くのでした。


 嬉し泣きなどではありません。


 誰にも理解されない、どうにもならないこの日常が、悪夢ではない自分の現実なのだ。


 改めて突き付けられると悲しくて、自然と涙がこぼれてしまうのです。


 こうして、実家住まいのネットビジネス業、啓一くん35歳のニィーティストな日々は、いつ果てるともしれず、明日も明後日も続くようなのでした。

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