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前日譚

「ひえっ」

康平は見上げた空に毒づいた。

曇天のそれは、怒るように時折雷鳴を轟かせながら、大粒の雨を散らす。

傘が吹き飛ばぬよう、柄を握り締め、康平は自宅へ向かっていた。

冬の17時はすでに真っ暗で、この大嵐ゆえか、人通りも少ない。

じゃぶじゃぶの靴底を踏みしめ、角を曲がると、毎度おなじみ、だだっ広い登坂の登場だ。

アスファルトに打ち付ける雨音を背景に、我が家を目指して走り登る。

途端、康平の視界が真っ白になり、同時に雷の呻きが押し寄せた。

思わず尻餅をつく。まぶたを明けると、大荒れの雨のなかに、ざらついた煙が流れ寄せていた。

目を凝らす。煙のなかに、ひとがいる。あれは──少女だ。少女が──服も着ず、倒れている。殴りつけるように、彼女の肌に雨粒がぶち当たる。

康平は慌てて、自分の上着を彼女に被せた。顔をさらに上げると、愛する我が家。とりあえず彼女を家に入れてから、警察か救急車を、呼ぼう。くしゃみをこらえながら、康平は少女を抱えて、自宅へ入った。

濡れた少女をソファにのせて、エアコンのリモコンを掴む。「暖」の文字を押してから、スマホを取り出し、「110」を押──そうかと思ったところで、誰かに手首を掴まれた。

冷たい手肌の感触に、思わず寒気を覚えた。

「だめ」

少女の、か細い声。彼女は潤んだ瞳で眉をひそめ、康平を見つめている。

「康平。糸田康平」

少女の言葉に、康平は小さく頷いた。少女は壁にかかったカレンダーを見やったあと、再び視線を私に移した。

「私を見つけたとき、もうひとり、いなかった?髪の長い」

康平はかぶりを振った。

「車ある?」

私は頷いた。

「じゃあ、すぐ出して。あと、着替えちょうだい。男モノでいいから」

康平が着替えを持ってくると、少女は秒でそれを身にまとい、彼の背中を押した。ふたりはそのまま外へ出て、真っ青な軽に乗り込んだ。エンジンがかかると同時に、少女が素早くカーナビに指を動かす。まるで以前もこのカーナビに入力したことがあるかのように。

目的地は、広宮市民病院。手術の失敗事例が多く、「死人病院」なんて呼ばれている場所だ。

康平はいわれるがまま、アクセルを踏み、嵐のなかへ飛び込んだ。

「あのー……」康平はおずおずと口を開いた。「山ほど聞きたいことはあるんだけど、最初に、まず、お名前は」少女はフロントガラス越しに康平を見やり、口を開いた。

「岩川ユミ。あなたが付き合うことになる女性よ」

言葉の真意がいまいち掴めずに戸惑う康平を尻目に、少女のユミは康平の足を踏みつけ、アクセルをさらに加速させた。

車が雨と風を切りつけながら、都市に伸びる道路を駆ける。左右から響くクラクションが、あらわれては過ぎ去る。

二人の視界に、徐々に赤十字の看板が広がった。

駐車場の暗がりに車を潜めてから、康平とユミは素早く車両を出た。ユミは履き慣れないジーパンを時折おさえつつ、玄関口へ入る。その背を追うように、康平も走る。横に広がる大階段がみえた。

ユミが走り登──りかけた途端、真っ赤な海が階段から走り落ちてきた。

二人は真っ赤な洪水に飲まれながら、そのまま玄関から飛び出した。

匂いをかぐと、「血なまぐさい」。

ユミは赤濡れた姿のまま、玄関のなかへ走った。康平も慌てて追いかける。

階段を登り、広い廊下を走ると、そこにいたのは、血塗られた幼女の姿。彼女はテディベアのぬいぐるみを手に、康平とユミを睨んでいる。

「ユミ!」

ユミは幼女に叫んだ。

「あなたのせいじゃないの!自分だけのせいじゃないの!あなたは生きてていいの!」

ユミの叫び声が廊下に響く。それを振り払うかのように、幼女は叫び声を上げる。康平とユミはその音波で身体が吹っ飛び、壁にぶち当たった。幼女は涙を浮かべ、ユミを見つめた。幼女は振り絞るように、こう呟いた。

「ココガアナタノ、サイゴノバショ」

幼女は再び叫んだ。その金切りとともに、康平は次第に意識を失っていった。

──ああ、どれぐらい経ったんだろう。意識が戻り始めたころ、康平は自分がどこかに座っていることに気づいた。

ここは……電車のなかだ。目の前のベンチには……髪の長い幼女がいる。

「お待たせ」

その声といっしょに現れたのは──さっきの叫び声の幼女だ。

髪の長い幼女は微笑み、一席分、体をずらす。

ふたりは仲良く並んで、叫び声の幼女が持ってきたソフトクリームを食べ始めた。

叫び声の幼女は髪の長い幼女を「カナ」と呼び、カナは叫び声の幼女を「ユミ」と呼んでいる。

すると突然、カナがむせ始めた。口から血の粒が散る。

ユミはそれを見て驚いている。

ユミはソフトクリームとカナを交互に見たあと、康平を見た。康平は震えた声で駅員を呼んだ。駆け寄ってくる足音にかぶさるように、カナが床に体を打ち付けた。ユミの悲鳴と、駅員の焦り声が広がるなか、カナの呼吸は次第に消えていった。

「わたしのせい?」

ユミは康平を見た。

ユミの心の声が、康平にだけ聞こえているようだ。「ねえ、わたしのせいなの?」康平は、何も言えず、というより、何を言えばいいかわからず、ただ視線を揺らすだけだった。

ユミはうめき声をあげながら、涙の粒を何度も落とした。その水滴が、「あの」大雨とかぶさったころ、康平の視界は再び、あの日の大嵐の登坂に戻っていた。

康平の手には、傘の柄。目の前には、倒れた少女はいない。そこにあるのは、自宅の玄関だけ。大雨に濡れた自宅は、康平に両手を広げて、小さく微笑んだ。康平は、世界が自分を認めてくれている気がして、安堵感を覚えた。その安心感が、自分に起きた恐怖の数分間の記憶をかき消してくれた。

やがて、大雨は止まり、陽の光が雲の隙間から顔を出して、白い歯を見せた。

それからしばらくして、康平は、看護師の友人に出会う。

それは彼の日常に、陰と彩りを与えることになるのであった。

Tobe Continued …。

(文・小池太郎)

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