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情けは人の為ならず ~利他主義はあるか?~

 表題の台詞(ことわざ)を「人を甘やかすとその人の為にならない」と解釈して使っている方はいないでしょうか? 実は恥ずかしながら私もすっかり大人になった後でもそのような意味だと勘違いしていました。
 正しくは「人に情けを掛けると巡り巡って自分に返ってくる」というものです。なんと逆の意味ですが実に趣深い言葉です。この諺は一見すると他人のための行動を勧めているようでありながら最終的には自身の為になる行動、所謂利己的な行いにも思えます。

 果たして人間の行いで純粋な利他主義は存在するのでしょうか? 近年「利他主義」の重要性が政治や社会、生活の様々な場面で注目されています。フランスの知性と言われるジャック・アタリは、「生き残りを望むなら、利己主義ではなく、利他主義が自身の利益になることを意識すべきだろう。現在と未来の人々を含めた、生きと生けるものへの利他主義を実践すれば、人類は感動に満ちた冒険を堪能できるはずだ。」(2020.6.11 日本経済新聞)と述べています。
 アタリは2050年ごろに世界の人口が100億近くに達し、アメリカの世界支配力が弱まることで、世界的な‟超紛争“が起こる可能性を危惧しています。そのような未来を避けるためには、私たち一人ひとりが利他的になることが重要だと強調していています。個人主義の色彩が濃い欧米社会において、利他主義が簡単に受け入れられるとは限りません。そこで、理性的に利他的に振舞うことが最終的に自身の利益に繋がるという‟合理的利他主義”の勧めを提案しているように思えます。

 この「合理的利他主義」や「情けは人の為ならず」という言葉の背景には、やはり利己主義が潜んでいるように感じられます。

 哲学者のピーター・シンガーは、格差や貧困問題解決への糸口として、‟効果的利他主義“という考え方を提唱しています。これは、自分のリソース(時間、金銭、労力など)を効果的に使って、他者の幸福を最大化することを目指します。この功利主義的アプローチは感情的な動機に基づく行動を避け、理性的かつ実践的な方法で他者を助けることを重視します。
 しかし、効果的利他主義が理性的であればあるほど、それが自己満足や自己実現の手段になり得るという疑問も浮かびます。最も効果的な行動を選ぶことが自己の内的な充実感や達成感を伴う場合、それは純粋な利他主義と呼べるのでしょうか?

 また、生物学や進化論の分野では‟互恵的利他主義“という考え方が古くから議論されています。これは、利他主義が最終的に自己利益や社会・種の利益(保存・繁栄)に繋がるというものです。
動物の世界でも、群れで生活する動物は、互いに助け合うことで個々の生存率を高めています。このような行動が進化の過程で選択されてきたと考えられます。
 しかし、この場合も、利他的な行動が最終的に自己利益に繋がるものであれば、純粋な利他主義と言えるかどうかは議論の余地があるところです。

 このように純粋に利他主義が存在するかどうかを考えると、確信ままならない感じです。マーク・トウェインは著書『人間とは何か』の中で、「人間は内なる主人の衝動に従って自動的に動く機械にすぎない」と断言しています。これは私たちの行動は自由意志によるものでは無く、内的な衝動や無意識の欲望に支配されているという視点です。これは「人間とは盲目的な意志の奴隷である」とするショーペンハウアーの哲学的見解を思い起こします。これ等見解に従えば利他的と思われる行動も内的な衝動や無意識の欲望によって動かされているだけなのかも知れません。
 
 私は長いこと人間は皆利己的であり、誰彼問わず他人の為には行動しないと考えていました。しかし、耳順う歳を迎え、最近では利他主義は実在するかも知れないという考えに傾いています。例えば、9.11の惨禍の最中、自らの命を顧みずに人命救助に駆け付けた多くの消防隊員、溺れている見ず知らずの子供を咄嗟に助ける人、急いでいるにも拘わらず、困っているお年寄りを助ける若者など、どれも皆見返りを求めていないように見えます。これ等の行動が純粋に利他的なものなのか、それとも何か他別の理由があるのかは分かりません。しかし、こうした例を見ると、利他主義が人間の本質に組み込まれているのではないかという気がしてきます。
 
 心理学の実験では、自由に使えるお金を自分のために使うグループと、他人のために使うグループに分けた場合、他人のために使ったグループの方が幸福度が高いという結果が出ています。お金は貯めるより寄付した方が幸せなのかも知れません。
 また、脳神経科学者のドナルド・W・パフは、人間の脳は利他的な行動が生まれつきプログラムされているという‟利他的脳理論“を提唱しています。
 
 この利他的脳理論は未だ仮説の段階ですが、将来的に証明される可能性はあります。またそうなって欲しいとも思います。
 但し、同時にそれが真実ならば、世界中に蔓延る悪意に満ちた利己的な悪行が何故存在するのかという問題の解明も不可欠であると思います。
 
 

                                    <2024. 8.16>