見出し画像

書きたい私と書けない私が隣り合わせで泣いている

昨晩ひとつの文章を書き上げた。だいたい1時間ぐらいかけて2000字近く書いていた。一通り読み返して、私はそれを下書きに保存した。きっとこれは公開することはないだろう。だって、内容がクレイジーだから。他人にめちゃくちゃ話したい内容だし、おもろいな〜と思ってたけど、客観視して見たその私は、まあ痛々しかった。それに、匿名でやるnoteで公開するには適さなすぎて(身バレの恐れもあって)そっと閉じた。

私的な文章を書くということは、自分とソレを切り離す行為になる。あんなに書きたかった内容なのに、読み返す私はいたく冷静で、いやこれ誰得やねんとツッコんでいた。

それが虚しくて、物悲しかった。多分数年前の私だったら気兼ねなく公開しただろう。そうできない程、私は年齢と経験を重ねてしまった。公開するとまずいだろうなと判断できるようになってしまった。これが大人になるということなのか。

毎日なにか文をしたためたいと思っているのに、いざ書き出すとなると何を書けばいいのか分からなくなる。頭の中ではいつだってつらつらと言葉を紡ぎ続けているのに、いざ文字にすることが難しい。私が書いたとて誰が読むんや誰得なんやという思いと、いや、もっと私は書ける、もっと上手く書ける、上手く書きたいという思いが混ざって、書くことへのハードルがぐんと上がる。今だってなにか上手いこと書こうと頭を捻っている。上手く書きたい、貴方に訴えかけたい、話を聞いて欲しい、私の話を。

あんなに自由に書いていた私は消え失せたようで、それでも書くことへの渇望だけは消え失せていなくて、チグハグな私は今日も頭の中だけで言葉を紡いでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?