日記(2021/06/15) # まじ日記

案の定、大豆田とわ子を見た。
そもそも、軽快な会話劇、芯をくったようなセリフ、曖昧さを許容する新しさなどは、めちゃめちゃ面白かったし、心地良さもあった。
しかし、最終回、伝えたいメッセージは、あれでよかったのだろうか。私がメッセージを受け止め切れていないだけの可能性もある。言外に漂うものをキャッチできていない感受性の鈍さもある。
しかし、しかし、「転んだ時1人で起きなくちゃいけない子」の何が悪いのかがわからない。そう言いながら網戸を直したのは父だった。既存の婚姻という枠組み、恋愛という枠組みを超えた関係により、人が生かされているのはわかる。それらこを超えていこう、枠にはまれないと幸せになれないという価値観から脱却しようということはわかる。わかるが、1人で起きれる子万歳だし、基本的には1人で起きれる子が、どう連帯してどう生きていくかが大事なのでは?とか思った。とわ子は一匹オオカミに憧れつつ、結局は人と暮らしたいタイプだったから、「転んだとき1人で起きなくちゃいけない子」と言われた時に、「それの何が悪い?」と言わずに、「そんなことない、支えられてる」と返答するわけだ。もちろんそういう人がいることは悪いことではないが、それを肯定してドラマになるほど、社会は成熟してるのかが疑問だった。
同性愛者の描写もそう。とわ子を肯定するために、マーさんが、家族を選んだ月子を責めるわけにはいかないことはわかるが、とはいえ、じゃあ、「しあわせな家族」を実現するために、「彼女」は身を引かねばならないのか?どの選択肢を選んでも幸せかもしれないが、本当に欲しかった幸せが得られなかった人が「でも、好きな人が笑ってくれたらしあわせ」という結論に帰着していいのか?
西園寺くんを支えることをゴールにしようとするうたに対してのメッセージも、じゃあ、それは、西園寺くんがめっちゃできた子であれば、言わなかったのか?そんなことないよね?大人同士は1人で生きていけない…のに、大人と子どもは妙に自立した関係なのも不思議だった。娘の彼氏に説明なしに大学落ちろと言ったことはあやまるべきだが、西園寺くんのワガママには叱った方がいいと思う。それは大人の責務なのでは…?でもそうやって許して流されて受け入れてきたから今の大豆田とわ子があるんだよな。それはそう。
それでも生活は続いていくんだよねって言うストリートの話なのかもしれない。

と、ここまで書いて思ったけど、私は、根本的に、孤独とか1人でいる面倒くささみたいなものが、よくわからないからとわ子を受け入れ切れないのかもしれない。やっぱり、「1人で生きていくのも十分楽しい、それをシェアしたらより楽しい」の価値観に立脚しているので、「1人で電気つけるのに疲れる」みたいなことが、よくわからないままだったな。
そうは言っても1人はしんどいじゃん、みたいなことが、リアリティをもって迫ってこないのは、私のせいなのだと思った。もしかしたら、多数の人に求められること、すなわち、モテ への嫉妬なのかもしれないが。

結局、愛されないと価値がないのか?求められないと価値がないのか?そんなことはないでしょう??

なんかとっ散らかったけど、とっ散らかるほどいろいろいいたくなるドラマっていうのは、いいドラマだったんだろうなぁと思う。めっちゃファンタジーだけど地に足ついてるようにみせるのもうまい。
3ヶ月楽しかったです。ありのままの姿見せるのよ。

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