日記(2021/05/04) #まじ日 「正欲読みました」

「正欲/朝井リョウ」読了。
朝井リョウは刺されエンタメだと昨日話したが、本作は刺されではなく、終始緩やかに首を絞められているような苦しさがあった。ひと思いに殺ってくれ、と何度も思った。

登場自分の「マイノリティ」への理解度はグラデーションであるが、「マイノリティ」度は必ずしもそうではない。「他者への理解度」も。
特殊性癖をもつ大也は、寄り添ってきて理解を示そうとしてくる八重子を疎ましく思うが、八重子のバックグラウンドにあるものに気付きはしないし、理解もしない。また、理解をさせようともしない。

マイノリティ/マジョリティの境界なんて曖昧なものだ。とはいえ、異性愛者で既婚であるという時点で、ざっくりとマジョリティに分類されるであろう自私の居心地の悪さは、暗に責められていると感じることによるものかもしれない。夫婦別姓選択に反対する人は、こういう気持ちなのだろうかと思った。本当のところでは理解ができないとされる自分がまるで悪者なのではないか、と思ってしまう。

でもって、やっぱりマイノリティ/マジョリティの境界は曖昧だ。私がアイドルを応援することは以前ほど特殊だとはされていない。では、双眼鏡で体を舐め回すように見ることは?脱衣に歓声をあげることは?ズボンのウエストから下着が覗いたことをめざとく見つけることは?わかりやすく性的でなくてもいい。言外の意味を読み取ろうとすること、本人の意図していない素の表情に湧くこと、これらは許されることなのだろうか?非均衡で暴力的な消費関係は、水が出る様子に興奮する様と何ら変わらないような気がする。そして、その「感情」には規制がかけられない。

この本を読んで、軽い絶望を感じた。じゃあ、わたしは、どう生きればいいのか。知らぬ間に傷つけているかもしれない前提で他者とどう関わればいいのか。もしくは関わらない方がいいのか。

多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突きつけられる言葉のはずだ。

この言葉を知ったことに意味がある、それ以上の言及は不可だと思った。

朝井リョウはずるい。どうしようもない目を瞑りたい知らないふりをしたい現実をかっぴらいて目の前に置いてくる。終始問いかけられているが一向に答えは出せず、登場人物の誰かに肩入れしそうになる、もしくは誰かを非難しそうになるたびに、そんな自分の傲慢さを突きつけてくる。それなのに、突きつける以上のことはしてくれない。答えはもちろん考え方も与えてくれない。「いろんな人たちがいることを”理解していきたい”」などという簡易な感想ですら先手を打って封じてくる。朝井リョウのズルさでもあるし、誠実さでもあると思う。だって、そんな簡単な話ではないのだもの。でも、自分の中でとりあえず型をつけることすら許してくれないのは、正直キツい。結果、一周回って「考えさせられる」というひどく凡庸で薄っぺらい言葉しか出せなくなった。

世界がLGBTだ、多様性だ、アップデートだ に追いついてきたばかりなのだ。それぞれに対して自分がどのポジションをとれるかを探り始めたばかりなのだ。このタイミングで朝井リョウは、正欲を書いた。当事者にとっては(すでにこの言い方が傲慢である)、世間が追いついてきたかどうかなんてどうでもよくて、関係なくて、すでにそこにある。こういうところに気づくのが朝井リョウの観察眼だよな、と思った。


そんな感じで、「考えさせられた」わけだが。1回では構造が理解しきれていないので、もう一度読んで図にしたい。個人的に1番印象に残ったエピソードは、修が本当は飛びこんだらどうなるかを知っていたのではないか、と思うところ。

その他、引用。

当たり前のように自分は生きてるしこれからも生きていくだろうって、そう思える人間

「明日、死にたくない」で社会が構成されているのは新発見だった。呑気に新発見だと言っていることすら傲慢。

男は、男であることから降りようとする男を許さない。

男の社会圧に興味がある。内省と言語化を頑張ったほうがいい。頑張ってもらいたい。

自分にとって不快なものを排除していくことが世の中の健全さに繋がると信じている人たちは、「時代がアップデートされていく」なんて喜ぶ。

健全さ、ってなんだろな。

お前にはお前のことしかわからない。
他者を理解しようとするな。

無知の知はいちばん大事な気がする。が、知覚してリャいいのか?という別の疑問が生じる。

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