日記(2022/03/26) #まじ日

「質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 /岸 政彦他」読了。

社会学ってなんなのか、質的調査のノウハウ、考え方、議論される箇所などが、わかりやすく書いてある、初学者向けの教科書。生活史の聞き取り調査のときに持っていくお土産の価格帯まで教えてくれる。

質的調査って主観の塊、主観によって何かを結論付けることなんてできるんか…?と思っていたが、そもそも量的調査で捉えられるものが科学的で正しいと言えるのか、そもそもたてられる問いに制約があることに私は気づいていたか?(いないのだが)とハッとした。と言っても質的調査と量的調査は二分されるものではなく、大きくゆるやかにつながっているものらしい。

社会学、特に質的調査の目的は

「他者の合理性」を、誰にでもわかるかたちで記述し、説明して、解釈すること(29ページ)


であるとされる。
これは、かなり、かなり、しっくりきた。他人から見たら一見不合理に見えるものも、当事者にとっては合理的な理由や動機に基づいて行動している。この理由や動機を説明することが、世界や考え方をアップデートにつながる、ということ。「他者」ではなく「他者の対峙する世界」を捉える。

先日、某匿名ブログに、自称「弱者男性」の書き込みがあった。ブログによると、その人は、5000万以上のマンションを購入できるくらいの資産があるが、特定の恋人や配偶者がおらず1人で生活しているため、弱者男性を自称しているらしかった。反射的に、「5000万円あるなら弱者じゃないだろ」と思ったが、「他者の対峙する世界」を捉えようとするならば、「金銭的に暮らしには問題ない人が弱者男性を名乗る」と言うことに着目し、問いを立てるべきなのかもと思い直した。

本著では、フィールドワーク、参与観察、生活史について、それぞれ章立てされて紹介されている。3つに共通しているのが、「調査はそれ自体が暴力的」「他人を研究し、理解しようとすることが暴力的」ということだった。調査法に寄るものではなく、広義の社会問題、つまり、(発見されている/いない に限らず)社会を構成する人間が困っていることを、第三者的なポジションから興味関心に基づいて研究することが、どうしても失礼にあたるので、ジレンマは抱えながらいるしかないんだろうなと想像した。

だいたい、研究に関わらず、他者のことをどうのこうの言うことは、品がないのである。私は、アイドルのファン活動を趣味にしていることからも、他者を解釈してあーだこーだ言ったり、簡易的に消費してることが多いのだが、まぁ、本当に品がないな……と常に思っている。思っている、知覚していることを免罪符にしている気まずさもある。一生抱えていかなくてはいけない。

話がずれた。

暴力性を孕む社会学だが、はっきりと定義されておらず意識されてもいなかった「名前のついていない」問題に名前をつけ、「社会全体の問題である」と定義付けるのもまた、社会学である。社会学が社会問題を構成していくという側面があるということは、社会学の意義の一つなのかなと思った。


そんな感じで、大学1回生が読むような教科書を読んだ。研究って大変そうだけどおもしろそうだった。職として研究をしていくのでなくとも、他者の合理性を理解するという視点で問いを立ててみて、調べたり聞いてみたり観察してみたりするのやってみたい。家族社会学の教授が、義母にいびられたときに、参与観察だ!とハリきったという話をしていたが、そういう含みがある生活は送れるかもしれない。

というか、私は、研究っていうものがなんなのかがまじでよくわからんまま大学を卒業したのだが、ここにきて、やっと、なんなのかを理解し始めた!こんなやつに税金や教育費がつぎ込まれていたのは本当に申し訳ないし、めっちゃ勿体無いが、今さら仕方ないので、こうやって、初心者として学んでいくしかない……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?