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京都佰物語

マエガキ

「俺は京都なんかに来ちゃあいけないやつなんだ」
「それならどうして来たんだよ?」

 これは僕とトシが珍道中で交わした会話の一部。
 仕事もお金も放り出して、ついには京都までついてきた友達。
 写真家で、音楽家で、お笑いが好きで、そして何よりも人が大好きなこの友達は、どうして京都までやってきたのか。
 その答えは十八年前から知っていた気がするし、今初めて知ったような気もする。
 とにかく――あいつの答えはこうだった。

「おまえが行くって言ったから」

 それはたとえば時間。
 それはたとえば経験。
 それはあるいは――精神。

 すれ違った時間の分だけ、想いを分かち合うための。
 
「僕達は――」

 応えようとして、けれど言葉が出ない。
 たぶん、このとき口から出そうになったのは、僕にとっての、トシとの関係。
 一体なんて表そうとしたんだろう。一体なんて著そうとしたんだろう。
 小説家と音楽家。
 兄弟ですかと聞かれたこともあれば、
 不愛想な男と笑い声のでかい男であり、
 ゴボウとピーマンのようでもある。
 土と風、まるで二人は風土のようだとも。

 どれもマチガイではないけれど、どれもセイカイではない気がする。
 僕は――トシとの間の答えを一体なんて。
 
 やれやれ。
 そんなもの、初めから分かりきっている。
 けれど、そいつは古都の旅の果てに話すことにしよう。
 
 それでは前置きはこれくらいとして、
 底の割れた茶番劇の――ハジマリ、ハジマリ。

京都

 京都は灰色だった。
 僕ら(少なくとも僕)の想像していた華やかな印象は微塵もなくて、ただ京都に着いたという事実だけがそこにはあった。

「京都だよな」
「京都だね」
「着いたんだよな」
「そのはずだけどね」

 バスの停車場所はヨドバシカメラのあたりで、三百六十度くるりと見渡しても「京都に来た」なんて感慨は湧いてこなかった。
 京都といえども町全体どこへいようと古都の匂いがするかといえば、そういうものでもないらしい。
 少し歩いて京都駅に着くと、この町のランドマークである京都タワーも見えてきたが、それでもまだ、変わらない。バス停に散らばる地名を見たところで、どうにも、変わらない。
 なんにしても、紅葉がまだ色づいていないように、僕たちの目にはまだまだ京都の街並みが色づいては見えないようだった。
 色のないのは季節の問題ではなく、僕らの問題だけれど。
 
 ただ、この旅の間に、きっと京都は染まっていく。
 そんな予感だけは確かに胸にあった。

星の高いうどん屋

「とにかく」と、気怠げにトシが言った。

「銭湯はもういいよ、開いてないんじゃどうしようもない。でも腹が減ったのはべつ」

 ホステルのチェックインを済ませた僕らはその足で近場の銭湯に向かったのだけれど、生憎平日のこんな早朝は営業時間外だった。
 アンニュイな空気感が漂う。
 高速バスの疲れと空腹が相まって、トシが憔悴気味なのも当然といえた。
 食べたいものを聞いてみると「なんでもいい、けどうまいもん」とだけ。
 なんでもいいが一番選択に困るというけれど、そこに「うまいもん」と追加条件が入るといっそう選択に困らされる。「なんでもいいっていったじゃん」とお決まりの文句も言えなくなる。
 うまいもん、ウマいもん、美味いもん、旨いもん。
 試しに言葉だけをなぞってみると、ぱっとうどんが思い浮かんだ。旨いと言えばうどん、うどんと言えば旨い、そんな決まりが僕のなかにあるわけではないけれど、間違いなく裏切らない料理のひとつではある。
 方向さえ決まればあとはインターネットが判断してくれる時代。
 
「ちかくに星4.7のうどん屋があるよ」
「うまいもんイコールで星の数って。俗っぽいなあ。てか、なに? 4.7? 高ッ!」

 食べログなどに比べてグーグルマップ上の評価は高得点になりがちではあるけれど、それでもなかなかお目にかかることのできない点数である。
 ちなみに二百件ほどのレビューがあるのでサンプリング数としても悪くはない。
 
「あ、ほかにもおいしそうなお店結構あるよ。丼ものとか……」
「いい、いい。行こうぜ、よんてんなな。もう頭がそれになってる」
「その呼び方はいかがなものかと……」

 俗物度がどんどん上がっていく。
 こうして僕らはその最高近い評価のお店に入り、なかでも特に絶賛されている九条ネギのかき揚げうどんを食した、のだが――

「トシ、よんてんななはどうだった?」
「思い出させないで、吐きそう……」

 考えてみれば本日一発目の食事であり、つまりこれは僕らの朝ごはんである。それに対して、大ボリュームのかき揚げを注文したわけだ。朝から大量の油。愚かだった。馬鹿でもわかる。
 今回の教訓はグーグルマップの評価なんて所詮統計学であるということだ。星の数に惑わされず、そのときのコンディションにあった最適なものを食べることが正解なのだ。
 星の数なんて参考程度のバロメータとして、活用するくらいのほうがいいのだろう。
 いや、ただべつのうどんを頼めばよかっただけなんだけどね。

釜めし

 食べ物の話のあとに食べ物の話をするのは、食いしん坊と思われそうでいささか抵抗があるのだけれど、それでも時系列を重視してここでは釜めしの話をさせていただきたい。
 僕の辞書をめくってアの音の棚から秋の引き出しを取り出せば、そこには一行目に釜めしと書いてある。
 春、夏、冬の欄には書いていない。
 食欲の秋。
 秋の味覚といえば秋刀魚、栗、松茸。すべてが炊き込むことに特化したそのための食材であり、さらには秋は新米の季節であり、そのうえ京都にはいくつもの名水がある。
 それら夢のかけらを詰め込んだ釜に蓋をして、じっくりとそのときを待つ。出来上がり蓋をひらくと、蒸気が沸き上がり、晴れ間からは金色に輝く出汁のしみ込んだお米が姿を現した。解放された匂いは一斉に鼻を刺激し、杓文字を釜にすべりこませると、こびりついたおこげが顔をのぞかせる。
 今日、釜めしを食べなければそれは嘘だ。
 
「突っ込みどころの多い回想中ごめんやけど、全部嘘やんけ」
「…………」
「秋刀魚も松茸も栗も炊き込むことが前提の食材ではないし、そもそも食べてるのはとり釜めしだし、おこげはついてないし、そんなに京都の水にも詳しくないでしょ。加えて言うなら釜めし食いたいって言ったのも俺な。なに、新手の文句なわけ?」
「逆、逆! ほんとに釜めしがおいしくって感動しちゃって捏造してた」
「感動して記憶を書き換えるってどないやねん……あ、でもおこげについては賛否両論じゃない? ないほうがいいって層も一定層いるし」
「ああ、どこかの界隈にはオカマにへばりつくおこげがって侮蔑してる人達がいるらしいね」
「ゲイ界隈の話はしてねえよ!」
「あれ、もしかしてトシって……? そういう理由で京都まで……」
「やめろやめろ、俺は女の子一筋だよ!」
「それは一筋なのか……?」

 念のため誤解のないように記しておくが、僕たちはゲイではないし、いただいたとり釜めしは大変味わいのある格別の一品だった。
「おこげがつく程度に炊いてもらうこともできるんですか?」という質問は三度したが、すべて無視された。

先斗町

 河原町、木屋町、先斗町。
 通りによって特色がでるのが面白い。一本変わるだけで町行く人の年齢層まで不思議と変わる。
 両側に立ち並ぶ店先の明かりのみで照らされた通りを歩いていく。

「知り合いに聞いたんだけどさ」とトシ。
 本当に知り合いの多いヤツである。友達百人できるかなを地で行くヤツだ。

「メニューのでてない、お店なのかすらわからないところ結構あんじゃん? そういうところって舞妓さんとか芸子さんの家とか、桁一つ違うような高級料亭らしいぜ」
「へえ」
「あとそれを隠れ蓑に一軒だけフリーメイソンの拠点があるらしいよ」
「本当に?」
「ほんと」
「嘘でしょ」
「ほんと」
「嘘だね」
「ほんと」

 トシはとにかくどうでもいいような嘘をつく。本当でも嘘でも構わないのだが、嘘であっても頑なに嘘と言わない。「信じないならいいけどね」と言ったスタイルを貫く。そこまで言うなら本当なのかもとまで思わされるのだ。
 学生の時に「煙草って左肺で吸うと白いけど、右肺で吸うと透明なんだぜ」というくだらない嘘に騙されて何度か試していた時期があったことを思い出した。
 果たしてこの話はどうだろうか。嘘か、真か。

「ま、信じないならいいけどね」

 嘘だった。

自転車

 自転車が好きだ。
 自転車は運動効率を何倍にもひき上げてくれる。
「コンピュータは知の自転車だ」とはスティーブ・ジョブズの言葉だけれど、そんな喩えに使われるくらいに自転車が優れた道具なことは明確だ。明らかで、確かなことだ。
 実際に京都に住む人からも「この町を最も効率よく移動するのに適した手段は自転車」だと教わった。次点で徒歩、車は最後。
 そしてそんなことは全部どうでもいい。
 コンドルとアナロジーで平行に語ることをしなくたって、自転車が素晴らしい理由なんて説明ができる。
 トシが自転車のキーホルダ―を買っていた。それだけで十分なのだ。
 
「おまえの俺への信頼って、果てしないんだな……」

ご利益

 自転車を借りて銀閣寺を訪れた僕らは、その足で次は清水寺を目指していた。
 哲学の道を通り過ぎ、地図を見ながら進んでいくと、不意に大きな寺の前に出た。京都という町は少しあるけば寺にあたる。ひとつひとつを気にしていたらきりがない。けれど――

「でかいな、ここ」
「またですか? 本当にでかいものが好きだよな。でかけりゃいいってもんでもないでしょ。でかいってのは、つまりただでかいだけだよ、日が暮れる前に行こうぜ」
「いや、僕もでかいだけなら通り過ぎるけど――」
「そんなことないね。じゃあどうして今までの小さな寺には見向きもしなかったんだよ」
「まあまあ、南禅寺って聞いたことない?」

 そういってスマホを取り出す。
 今のご時世、気になればその場ですぐに調べることができる。
 文明の利器様様だ。僕はスマホだけは大事にしようと決めている。
「ほら有名なセリフあるじゃん、絶景かな絶景かなって五右衛門の。ここからの景色らしいよ」
「ああ……絶景かあ……絶景ねえ」

 まだ煮え切らない様子だが効果はあったようだ。写真家としての血か絶景という言葉には弱いらしい。人のことをでかいもの好きとか責められたもんじゃない。
 よし、あと一押しってところか。

「星4.4だよ」
「昨日食ったうどん屋より低いじゃねえか!」

 失敗した。

「ってか寺を星の数で評価すんなよ、ご利益なくなるぞ」
「まあまあ。でも折角だしさ、いちおう御朱っとく?」
「ご・り・や・く!」

清水の舞台

「清水の舞台から飛び降りる気持ちってどんなんだろうなあ」

 日の暮れた二寧坂を、登り切った。自転車を担いで。途中横着をしようとして、スタッフ用の自転車置き場に止めようとして注意されたりしながらも、どうにかたどり着いた。
 橙と青のグラデーションの夕映えが広がり、京都タワーの色はホワイトだった。
 後から知ったけれど、京都タワーは日によって色が違うらしい。ホワイトはノーマル。
 清水の舞台から飛び降りる気持ち。
 願掛けと聞いたことがある。譲れない思いを胸に抱いて、限りなく死に近い淵を進む、といった感じなのだろうか。理屈で考えてみても、どうにも感情というものはついてこない。わからない。
 ただひとつ、僕にもこたえられる清水の舞台の話があった。

「わからないけど、清水の舞台って年中工事中らしいよ」
「あ、そうなの?」
「渋谷駅みたいなもんだってさ」
「絶対、誰に聞いたのか知らないけど、絶対、渋谷駅みたいなもんとは言ってないだろ。それはおまえが自分で付け加えたろ」
「渋谷駅といえばヒカリエにこないだいったとき」
「渋谷駅の話をするのをやめろって言ってんだよ」

 きつめに言われたので渋谷駅の話は我慢することにした。

「じゃあ清水の舞台から落ちた時の致死率の話なんだけど」
「それもやめろ」

 帰り際に綺麗な外国のお姉さんがいたので、トシに頼んで写真を撮ってもらった。
 そういえば、旅を終えた後で気づいたけれど、僕の御朱印長には未だにこのお寺の御朱印がない。京都でも一二を争う有名なお寺なのに。
 いつでも来れるせいで、来ることができなかった場所。

夜間ライトアップ

 僕らのライトアップデビューは東寺ですることにした。
 自転車で一日中京都の町を駆け回ったというのに、そんなことつゆにも感じさせないほどにトシが元気なのだ。どうにも、パワーが余って仕方ないらしい。
 僕のものぐさな性格もトシといればおしりを叩かれ、どうにかなってくれるかもしれない。
 かくしてやってきた東寺のライトアップは圧巻だった。これが京都で一番美しい建物だと言われれば、そのまま信じてしまいそうになるほど。あらためて、光って凄い。闇の中、ライトを当てられた塔が黄金に輝き、水面に反射して境界線すらもわからなくなる。人工的で、幻想的。いくぶんか妖しくもある。
 これにはカメラマンもご満悦で、楽しそうである。はしゃいで見える。

「そういえば――トシってどうしてカメラ始めようと思ったの?」
「言ったことなかったっけ?」
「聞いたことあったと思うけど、ほら、なんかラーメン屋で戦争起きたじゃん、聞きそびれちゃって」
「ああ……」

 トシは、金閣寺を背にして写真を撮っている二人組の女の子のほうを一瞥してから、どこか遠くを眺めた。今まで歩いてきた道を振り返るような、そんな優しい目線だった。
 少なくとも、ラーメン屋で起きた戦争のことを思い出しているわけではないだろう。

「もう忘れちゃったよ。ただあの頃は、好きな子と仲良くなるのにカメラってすごく便利なツールだったんだ。それで実際にやってみたらどんどん好きになっちゃった、みたいな感じなんだけど――いまでも好きな人たちを、撮れたらいいなって思ってて、俺にしか取れない写真がきっとあって、写真があればもっとみんなと関わっていける」

 それはトシの信実なんだろうと、妙に理解した。

仕事

 京都にやって来てからはじめての別行動の日。
 僕はインターネットが繋がってさえいれば、パソコンひとつでどこにいても仕事ができる。リモートワークというやつだ。
 一ヵ月、遊んでばかりもいられない。旅費分くらいは稼がなくては。
 ところでその間にトシが何をしているかと聞かれたら、わからないと答えるほかない。カメラ関係で行きたいところがあると聞きはしたが、それ以上は特に聞いていない。時折写真が送られてくるので、満喫していることだけは確かだろう。
 四条通りを東にまっすぐと歩いていき、河原町通との交差点を超え、さらに木屋町通り、先斗町の入り口を横切って四条大橋を通りすぎ、祇園の通りをまっすぐ進むと、町の中に八坂神社の大きな鳥居が見えてくる。
 
「さてと、お仕事頑張りますか」

 小さな喫茶店に入った。パソコンの使用は自由で、電源も貸してもらえる。他のお客さんは一人もいない。静かな空間だった。
 雪のような氷菓子。メニューはそれ一つだけ。自信のあるたったひとつの商品で勝負する。トシの好きな類の店だ。
 キーボードを打つ手を止めて、昨日の夜の会話を思い出した。

「いいよなあ。旅をしながらできる仕事。俺、そしたら一生旅すると思うわ」
「おまえはそういうやつだ」
「急にときかけ?」と笑い、深く息を吐きながら「仕事ねえ……」
「どうしたの、やっぱ一ヵ月仕事なしで京都で遊び倒すのは不安もあるわけ?」
 
 考えてみれば、不安にならないほうがおかしい。
 ただでさえトシは、宵越しの金を持たず、現在にオールインする傾向が強いので、なおさら厳しい状態のはずだ。
 懶惰な生活を送る余裕はない。
 そんなギリギリのトシだからこそ、一緒に来てくれたことがとても嬉しい。
 長者の万灯よりも貧者の一灯。
 
「不安はあるよそりゃあ。俺こんなんでいいの? みたいな。でもこれは絶対来たほうがいいじゃん。あ、京都に来たかったとかじゃないよ。それは二の次三の次。シンプルに二人の時間を過ごしたかったんだよね。俺らってどんなふうなのかなって。十八年? いて二人だけで長い時間を過ごすことなんてなかったじゃん。っていうか、生きていて、そんな機会、滅多にないじゃん。自分から作りにいかない限り」

 二人で過ごす時間。あんまり考えたこともなかったな。僕らはどんな風なのか。二人の関係性。
 君と僕との間の答えを探そう。どこかで聞いたことのあるセリフが頭をよぎった。誰のセリフだったろうか。思い出せない。
 トシはきっと誰にでもそうだ。こんなにも人と向き合っている。
 ただ感心し、けれど言葉が出ず、仕事の話に戻す。

「……カメラとかは?」
「この時期の京都は最高だけど、風景より人を撮りたいからなあ。モデルが見つかればいいんだけどね」
「じゃあ今のところ、本当に、まるっきりオフなわけだね」
「そ。だから二人の時間に全振り。楽しいことしかない旅」

 そんな風に言われたら、僕もさっさと仕事を片付けてしまって、同じ場所で、遊びたいじゃないか。
 こうして、僕にとっても、とにかく仕事を受けない一ヵ月となることが決定した。

浅岡俊光

 閑話休題。
 少し京都旅からは離れてトシについて考えてみたいと思う。
 先日飲んでいた時に「ねえカリスマ。ビールでいいの?」と呼んでみたら、露骨に嬉しそうだった。「カリスマ……いいですねえ」とご満悦の様子だった。そんな可愛いところがあったりする。ちなみに「坊ちゃん」と呼んでも楽しそうに笑ってはいたが、そちらは不服そうだった。
 さて、人を本当の意味で知るためには渋沢先生曰く、視観察が必要らしい。
 視て、観て、察る。
 ただ漫然とトシのことを視ると、一日の時間の大半を誰かのために使っているように思う。
 今回の旅にだけ焦点を当ててみても、どうやらその答えは見つかりそうな気がする。その方向でいったんは思考を進めてみたいと思う。
 京都で一ヵ月暮らす。その発端は紛れもなく僕だ。
 それなのに「俺も行こうかな」と言ってくれたのが無性に嬉しくなって、少しはしゃぎ、行こうよと誘った。実際このとき、本当にトシが来るとは思っていなかった。現実的にはこれないだろうな、と思っていた。
 
 けれど――トシは本当に京都まで来た。
 
「行けたら行く」で来ない人が溢れているなかで「行けたら行く」で本当にやってくる。トシはそんな人。
 もちろん、この京都に至っては、僕だからこそ、一緒に来てくれたのだろうという自負もあるんだけどね。
 では果たして、その理由は、動機はいったい何だったのだろう。

「お前が行くって言ったから」

 トシはそのままそう言って、確かにそれ以上の理由なんてないようであった。
 京都に来たかったからではないかって? それなら他の人がそうしたように、二三日遊びに来て帰ればいいだけだ。僕との時間をひと月、旅の中で過ごすためにだけ、トシは来たのだ。紛れもなくそう感じた。
 どうしてそこまで、友達との時間を大切にするのだろう。なにがそこまでトシを突き動かすのだろう。
 その人の行為の落ち着くところはどこか――その人は何に満足して生きているのかを察知すれば、必ずその人の真の性質が明らかになるという。
 
 僕はそれをこの旅で知れたように思う。
 さて、その答えは――おっと。
 まあ、おしまいまで読んでみてほしい。

山道

 伏見稲荷神社の山頂を目指すとなれば、ちょっとした登山である。
 はじめは意気揚々と登っていた僕らも山頂付近に辿り着く頃にはかなり疲弊していた。

「なんだよここ、キツネに化かされてんじゃねえの」
「いや、化かされたのはキツネじゃなくってトシにだよ。自信ありげにこっちっすよとか案内してたじゃん」
「でもきっと白滝とか見に行ったの俺らぐらいだからラッキーじゃん」
「ポジティブかよ。それにあれは滝と呼んだものかどうか……」

 ホースから流れているような申し訳程度のちっちゃな滝を見たが、感動も何もあったものではなかった。だいたい滝がありますよというわりには水音すら聞こえずに、おかしいなとは思ったんだ。
 骨折り損のくたびれ儲け。
 正規ルートに戻って一度考える。

「山頂どうする、もうやめる?」

 帰りに銭湯によって帰ろうと思うと時間はギリギリ。
 ここで引き返すのも、また勇気。
 あるいはコンコルド効果。サンクコスト効果だっけ?
 このあたりで見切りをつけて、下山してもいいのかもしれない。

「まあなあ、別に山頂まで行ったところでなにもないもんなあ」
「でも、行くんだよね」
「……行きますよ、そりゃあ」

 山頂に到達したからって、なにか意味があったり、明日からの生活が変わったりすることはない。時間がかかり、疲れるだけ。伏見稲荷の山頂は絶景だなんてことも聞いたことはない。
 富士山を登っているのとはわけが違う。達成しても劇的なことなんてまるでおきない。
 行きたかった場所というわけでもない。
 本当にやめて下山してもいいのだ。残念なことなんてなにもない。
 それでも、きっと行かずにはいられない。
 自分でもどうしてだろうと不思議に思うし、トシに聞いてもおんなじだろう。
 ただ、曲げてはいけないもので――生き様とでもいうんだろうか。
 僕らは、恐らくこの先もずっと、不器用に、この小さな積み重ねの道を一段ずつ歩いていくんだろう。

コンビニと缶ビール

「何年ぶりだろうな、こんな風に二人でコンビニの前で缶ビール飲むのなんて」
「片手じゃ足りないくらいかな」

 トシはゴクッと小気味いい音をならした。
 それこそ、当時の僕らはビールなんて好きじゃないのに、美味しい振りをして飲んでいた。お互い、格好をつけようと「やっぱうまいねえ」と背伸びをしていたあの頃と比べて、少なからず大人になれているだろうか。
「このあいだ」と、トシが空を見上げて言った。

「このあいだ――っていっても結構前なんだけど、夢を見てさ。その夢んなかでもこんな感じで一緒にいるんだよ。するとおまえが急にこっちこっちって手招きしながら走って行ってさ。あれはどこなんだろ。五反田のあたりかな。なんかまあどこでもいいや。とにかくどこかの高速の下みたいなところで、結構うるさくてさ」

 いつか見たうろ覚えの夢の内容を、思い出しながらひとつずつ言葉にしている感じ。自分の頭の中を探るように、ひとつずつ、丁寧に。僕は話の腰をおらないように相槌だけで耳を傾けた。

「そんでさ、どこかのビルの前まで来ると、急に窓を開けて中に入っていくんだよね。え、なになに、とか言いながら俺も続いていくんだけど、部屋はスッカラカン。そこでおまえがいうんだよ。ここ借りたから秘密基地にしようぜって。でも鍵はなくしちゃったから! 帰るときは窓から帰ってね、って」
「それは――なんていうか、すごく僕っぽいね」

 秘密基地にしようぜっていう幼稚さも。
 鍵を失くしてしまうだらしなさも。
 それでいて――窓から入ればいいかと開き直っているところも。
 どれもそのまんま、僕だ。

「なんかすっごくワクワクしてさ。高揚感が湧き上がる音が聞こえたんだよ。ここから物語が始まるのかもしれないなって思えて――うまくいえないけど、そういう存在なんだよな」
「……そんな、いいもんでもないよ――頑張るとか苦手だし」
「知ってる。でもそういうのも全部含めていいんだよ、居心地が」

 いくつになってもコンビニの前で、缶ビール一本で乾杯のできるこの居心地がさ。
 トシはそういってくしゃっと笑った。

サウナの梅湯

 京都にいる間に何度もお世話になった銭湯、サウナの梅湯さん。
 ホステルはシャワーしかなかったので、湯船に入りたいときは必ず梅湯にやってきた。
 特に書くこともないので、別れについて、少し話したいと思う。
 この題目、間違っている気もするが、湯船につかりながら考えていたことなので、なんとなく、ここで書きたい。
 まずトシの言葉を聞いてほしい。こうやって自分の大好きな友達の話をエピグラフする機会がくるのは非常に嬉しい。こんなに楽しい時間はない。
 
「そろそろ巨乳にばっか興味持つのやめなよ」

 違う違う、これじゃない。少しガタが来ているな、この頭。ポンコツめ。子供のころよく叩かれたからな。
 ええと――

「たまに歩いてきた道を振り返ってみると、別れてきた人たちのことを思い出すんだよね。懐かしくなってその地点まで後戻りしたくなることもあるんだけど、でもやっぱり、止まらずに進んできたから、別れた場所は遥か遠くに豆粒みたいに小さく見えて、もう戻ることはないんだなって思うんだ」

 そうそう。これだこれ。
 僕はこの話を聞いたときに、シンプルに「すごい」と思った。
 過去に戻れるならいつがいい? と聞かれて「今」と即答できる人がどれだけいるだろう。少なくとも僕はできない。失敗や後悔の歴史が、多くある。零落した不体裁な過去がいくつもある。
 トシはたくさん抱えて、ちゃんと今を生きているんだろう。
 過去を肯定できるのは、生きている今だけなんだと、いま頭をワシャワシャと洗っているアイツの背中を見て思った。たぶんトシはそれを誰よりもわかっている。
 僕もそれを見て、精いっぱい毎日を生きている。
 きっとみんなも精いっぱい毎日を生きている。
 だから――別れた場所にはもう誰もいなくって、みんな、みんな道の先にいるんじゃないかなって、そう思った。
 僕とトシが何度道が別れても、何度でもその先で出会ってきたように。

アイム ア ガーリックヒューマン

「アイムアガーリックヒューマン」
「高菜! 高菜! 高菜!」

 わけのわからない酔い方をした。

でかいもの

「どうしてそんなにでかいものが好きなわけ?」

 京都御所の広さにうっとりとしていると、トシがあきれたように尋ねてきた。
 自覚はなかったけれど、言われてみればこの旅では建物や植物など、兎にも角にも巨大なものばかりに感動しているように思う。

「うーん、でかいものかあ。でもやっぱり迫力かな。でかいものってわかりやすく迫力あるじゃん」

 トシは納得したのかしてないのか、少し考えるそぶりを見せてから「女の子」と言った。

「女の子はどうなの。背の高い子と低い子、どっちがタイプ?」
「でかいほうがいいね」
「170とかあっても?」
「最高だね」
「おっぱいは?」
「そりゃあ、ねえ?」
「じゃあ、態度は?」
「態度は……でかくないほうが……いい……」
「はは。やっぱ迫力もあったらいいってもんでもないってこった」

 トシはしてやったりと笑いながら歩いていく。なにがそんなに楽しいのか「ピクリとも、動いてへんで~動いてへんで~」とわけのわからないフレーズを口ずさみ、そしてまた大声で笑う。狂ってるなあ。
 どこかで誰かがつぶやいた。おやおや、笑い声のでかい男がやってきましたよ。
 トシの後ろをついて歩き、思わず苦笑いが漏れる。
 どうやら僕は、やっぱりでかいものが好きらしい。

吉野家の株主

 夜も深くなってきた頃。
 ハイボールとビールにまみれた僕らは、吉野家に向かっていた。
 吉野家の風味をつけることに特化した辛さのない七味唐辛子が好きだった。
 ただしここ最近、僕もトシもなかなかに美味しいものばかりを口にしていたため、いささか舌が肥えてしまっている。舌がわがままになってしまっている。
 吉野家の実力は知っているとしても、信頼が、少し揺らぐ。
 牛丼、並盛、一杯。
 はたして。

「――うまい!」

 僕らは声をそろえていった。

「京都であろうが東京であろうが吉野家をおいしく食べれないようじゃ日本人として失格だよな」

 その通りだと思った。

龍安寺

「ここ、一番かもしんない」

 龍安寺の境内、蓮の葉の浮く池をレンズ越しに眺めながらトシがいった。
 京都観光も有名どころを半分は回ったあたりだろうか。
 まだ嵐山や貴船、苔寺あたりの本命が残っているとしても――それにしても一番か。
 そういえば。
 前に訪れた時、僕も龍安寺をすごく気に入ったんだっけ。
 二度目でもその気持ちが褪せていることはなかった。龍安寺は良い。素直に、そう思う。
 有名な石庭まで見終わるとトシがまた、
「やっぱ一番かも」と言う。

「そんなに気に入った? たしかにひらけてて窮屈じゃないし、人も多くなくて、この静かな感じ、いいよね」
「それもあるけど、もっとなんかこう、磁場的な」
「磁場?」
「イヤシロチとかケガレチとかそういうやつ」
「ふうん」

 ケガレチがよくなさそうなのは字面で理解できるけれど、イヤシロチか。卑しいという言葉、それとヤマタノオロチを連想したがどっちも遠そうである。ここで「ああ、イヤシロチね。ヤマタノオロチの親戚でしょ。あの卑しいやつ」とか知ったかぶっても意味なんてないので、わかったふりして黙っておく。
 たぶん話の流れをくむに、良い土地、悪い土地ということなんだろう。
 それで言うならば、京都は僕らにとって、ものすごく磁場が合っている。住みやすく、心地よい。細胞レベルでそう感じているので、ロジカルよりももっと、妙に納得するところがあった。

小さなころから

 僕らのバスケットボール部時代と言えば、グラウンドのはしっこにある練習場でJUDYANDMARYを歌いながら、ドリブルやパスの練習をしていた印象が強い。
 ビールを好きになったのも、もしかしたらラッキープールの歌詞が印象的だったからかもしれない。
 龍安寺から金閣寺までの道のりを、バスケ部の頃に戻ったかのように、JUDYANDMARYを聞きながら二人で歩く。
 音楽がフックとなって、記憶が呼び起こされる。ラストコンサートのDVDを借りたり、持っていないアルバムをMDに焼いてもらったり。
 当時からトシは本当に音楽が好きだった。

「今までに見たすべての価値観を変える愛の力、めっちゃいい歌詞だよね」

 曲を口ずさみながら「この詞は……YUKIかなあ」というトシからは、作者への愛情が溢れでているのが伝わってきた。

「僕は小さな頃からが好きだな」

 小さな頃から、叱られた夜は、いつも聞こえてきてたあの小さなじゅもん。
 このフレーズが好きだった。今でも好きだ。

「わかるよ。きっと短い言葉だよね」
「うん、そう思う」

 その人にとっての大事な一節。自分だけの特別な言葉。だから僕らが想像しても、きっと意味はない。
 小さな頃、トシからたくさんの音楽を教えてもらったように、たくさんの価値観を変えてもらったように、またこの旅で教わっている。
 音楽から道徳を学んだっていうトシから、文学から哲学を学んだ僕は教わっている。
 根源的な音楽を愛する気持ちを教わっている。
 僕はあの頃の――すりきれた言葉たちのかけらをかき集めた。
 足りないかけらは今の気持ちで補って、小さなじゅもんを心の中で、そっとつぶやいた。

一番人気

 連れられてきたのはカレーうどんで有名なうどん屋だった。
 店内に入ると壁一面に著名人のサインが並び、期待が高まる。
 トシが頼んだのは普通の肉カレーうどん。僕は一番人気と書いてあるチーズカレーうどんを注文した。
 半信半疑で。本当にチーズが入っているほうがおいしいのかと。プレーンな状態を超えるほどに、チーズが良さを引き立てるのかと。
 実食――

「……嘘は、罪だよね」
「急にどうした!?」

兄弟ですか

 居酒屋の店員から。
 ホステルのレセプションで。
 宿泊客に。
 SNSで。
 何度も聞かれた。

「兄弟ですか?」

 そんな俺ら似てる? と、互いに顔を見合わせてみるけれど、全く似ていない。
 誰かは鼻が似てると言う。
 別の誰かは目元が似てると言う。
 雰囲気が似てると言われたときはわからなくもない気がした。
「似てるかねえ……」と、首をかしげるトシ。

「似てはない――けど」

 まるで水面の向こう側をのぞくような、そんな気持ちになるときは――たしかにある。
 波紋を立てれば消えてなくなるような、儚い相似を感じてはいる。

「けど?」
「ううん、なんでもない」
「ふうん――ま、似ててもいいか」

朝起きたらいない現象

 早朝の鴨川ジョギングを終えて宿に帰ると、このうえなく気怠そうな顔をしたトシがラウンジで待っていた。
 風邪をひいたようで、病院に行ってから具合は回復してきてはいるようだが、まだまだ全快とはいかないらしい。
「どこ行ってたの?」と聞かれてこたえるのも、京都に来てから十日ともなれば慣れた朝の風景。
 しかしこの日のトシは思うところがあるらしい。

「俺は毎朝起きると必ずすることがあるんだよ」
「ハミガキとか?」
「それもするけど違う。もっと最初」
「スマホを見る?」
「それよりは後」

 自分が朝起きてすることを一度考えてみる。
 スマホを確認して、そのあと。荷物の紛失確認だろうかと考えたがハズレだった。
 
「ベッドの下のおまえの姿を確認することだよ」
「……へえ?」
「そんでさ、最近、いつもいないんだよ。なに? 朝帰りなの自分?」
「いや、一緒に寝てんじゃん」
「語弊のある言い方だな……まあいいや。んでさ、空っぽのベッドを覗き込んだ時の俺の気持ち、わかる?」
「……わっかんないなあ」
「わかれよ。シンプルに寂しいだけだよ。なんなんだろうね、これ。名前つけてくれない? 朝起きて二段ベッドの下がもぬけの殻になって寂しい現象に」

 一応考えるポーズだけとってから、その問題に答えた。

「トシ、それはただの寝坊だよ」

大阪

 大阪については語らない。

茂原の宇宙塵

 僕らは旅の途中で茂原の宇宙塵と出会った。
 二人がかりでも追いつけない、博識な、学のある人だった。まるで違うよと感じさせられた。
 その人は僕らのことを風土のようだと言ってくれた。
 行動力で興味のあるものに片っ端から挑んでいくトシはたしかに風かもしれない。
 でも、僕は土だろうか。そんな大それたものなんだろうか。
 いまだに砂糖菓子の弾丸しか持っていなくて、それじゃあなにも打ち抜くことなんてできない。
 もう一度、会って、僕は土ではないんですと、懺悔したい気持ちになった。
 部屋に戻るとトシが待っていた。

「なんかさ塩食べにおいでって言われたんだよね、茂原まで」
「塩ってそのまま食べるもんだっけ……?」
「なんだろうな……」

 トシは「だけど」と付け加え、いつものシニカルの笑みを浮かべたあとにこう言った。
 
「あの人――きっとフリーメイソンだぜ」

不滅の法灯

 比叡山延暦寺。
 その根本中堂内陣には千年以上も消えずに輝く小さな法灯がある。
 僕は土でも風でもなくって、本当は火になりたかった。
 サル顔の紳士になりたかった。
 僕の中にだって微かに光を放ち、触れるとちゃんと温度があって、すべての源泉になるようなものがあるのだ。
 小さな、小さな消えることのない火を見つめて。
 この薄っぺらい胸の内にだって、ちゃんと、消えない炎があるんです。そう思った。

古書店

 神の匂いが漂うこの空間が好きだ。
 ここには大好きな人たちがいる。太宰治がいて、中原中也がいる。

「最初の誤字のせいで大変なことになってるぞ」

カラスの目

「なんか今日、目がきれいじゃん」

 二杯目のハイボールを注文して戻ってくると、唐突もなくトシに言われた。

「それはなに? 嫌味?」
「違う違う! いつもカラスみたいな目をしてんのにさって」
「カラスみたいな目ってだいぶ失礼だけど……」
「ほら、カラスも友達だと思っていつもおまえのこと見てるじゃん」

 出会ったころからずっと言われ続けているので慣れてはいるけど。
 でも、カラスの目か。そんなに普段輝きがないかな、僕の目は。
 それとは対照的に、トシは少年のように、澄んだ目をしていた。濁りがなくて、キラキラと、悪戯っぽい瞳。

「んで、なんかいいことあったの?」

 トシがしつこく聞いてくる。
 もしも今日本当に綺麗な瞳をしているのだとしたら、それはたぶん、美しいものを一日見ていたからだろうって思う。美しいものには、瞳を綺麗にするだけの魔力もあるのだ。きっと、そうなのだ。

「しめたものだ」
「なんかあったな!?」

ティッシュ

「なあ、ティッシュってあるじゃん?」
「ない」
「いや、そこはあれよ……てかまさにこれだよこれ」

 そう言ってトシは目の前のティッシュ箱を指さした。
 何の変哲もない、四角い紙の箱である。

「ティッシュについて思うことがあったりなかったりするわけよ」
「へえ、ないんだ」
「あるんだよ」

 どうやらティッシュについて一席ぶってくれるらしい。
 またぞろくだらないことを言い出すのであろうが、たまにはそういった偏見を捨てて傾聴してみてもいいのかもしれない。

「こうして取られるのを待っているティッシュがいるじゃん? それを引っ張ると……新しいティッシュが飛び出てくるだろ? 最初のティッシュにひっぱられて」
「つまり?」
「ようは未来ってものは現在に引っ張られて出てくるってわけよ。現在がまずはあってだな」

 今度はトシがたてつづけに何枚もティッシュを引っ張り出した。
 現在が未来を引っ張って、未来が現在になって新たな未来が準備を始めて、それもまた引っ張り出され――と思いきや、何回目かの試行でトシの手が止まった。
 引っ張るべきそれが出てきていない。
 そこでシニカルに笑って続きを話し始める。

「こんな感じにつまって出てこれない未来もあったりしてさ、そういう場合は突っ込んで取り出してあげないといけないわけ。ティッシュってすごいよなあ」

 感慨深そうにトシはいう。
 さて、朝ごはんでも作りますか。

イワナガヒメ

「イワナガヒメはコノハナサクヤヒメと二人で神様のところに嫁ぐんだよ。サクヤヒメはとても美しい人なんだけど、花は短命だから、岩のように永遠であるイワナガヒメもセットで必要だったんだって」

 貴船神社の結社では、イワナガヒメが縁結びの神として祀られているらしく、僕は古事記について勉強したときの蘊蓄を披露していた。

「でも神様はイワナガヒメだけ実家に返しちゃうんだって」 
「へえ。どうしてまた?」
「イワナガヒメは見た目が醜かったんだってよ」
「ええ……そんな人が縁結びしてくれんの? 任せて大丈夫? 恨みとか募ってない? 俺がしたいのは呪い事じゃなく願い事なんだが」
「僕に言われても知らないよ……でも、岩だし」
「岩か。じゃあいっか。さあて、イワダノミ、イワダノミっと」

水みくじ

「トシ、水みくじやろうよ。貴船神社って水神様を祀ってるらしいから」
「京都で一回くらいしといてもいいか」

 僕らはあちこち神社も回ったけれど、御神籤をするのは初めてだった。
 旅の運勢でも、占ってみようかという程度の、ゲン担ぎのようなもの。
 僕は大吉だった。
 トシは文字が浮かんでこなかった。

「ふうん。出にくいのもあるんだあ」

 大吉よりも、トシのありのままを受け入れる姿勢に癒された。

折り返し

 十一月も半ば。まだ紅葉は三分といった具合だけれど、僕らの旅は折り返しに来ていた。
 今までお世話になったゲストハウスを出て、次のホステルに移住する。あまりにも居心地がよかったので名残惜しい。
 新しい宿はオシャレで、設備も充実していた。どこか整いすぎていて、旅という感覚からは遠のいてしまいそうな。
 さて、ここから後半戦。
 京都にも慣れてきて、観光もほどよく済ませて遊ぶのみ。
 それでは、もう少しだけ、お付き合いください。

宇宙の根源的形態

 京都最古の禅寺、建仁寺。
 〇△□乃庭があるんだよなあ。
 単純な三つの図形なんだよなあ。
 宇宙の根源的形態を示しているんだよなあ。
 ここにいるだけで、心静かにみずからと向き合えるんだよなあ。
 人の心は本来自由でおおらかなんだよなあ。
 八〇〇年の時をこえ、その教えが息づくこの場所で、自らの心を見つめなおすんだよなあ。

「まるで自分の感想みたいにパンフレットを読むな」

陰と陽

「陰と陽」
「え? なに? インド洋? 急に?」
「陰! と! 陽! トシってさどちらかと言えば陽キャじゃん?」
「どちらかといえばな。限りなく陰に近い陽な。うぇーいとかできないタイプの」
「その気になればできると思うけどね。でもわりと誤解されやすい気がする。陽よりの陽に思われがちじゃない?」
「それはある。でもさ、たいていの人って二面性があるよな。大丈夫って見える奴ほど弱っちくってさ、悩んでても吐き出しかたを忘れちゃって、人一倍苦しんでたりしてさ」

 二面性。
 陰であり、陽である。
 善であり、悪である。
 強くて――弱い。
 脆くて、弱くて、つぶされそうなトシを何度も見てきているから、その二面性を知っているから、僕は黙って頷いた。

「おまえはどっちなわけ? 陰? 陽?」
「僕は陰キャだよ。曖昧な定義だけど、人間するのわりとへたくそだから」
「人間失格ってか? でもジェダイかシスで言ったらジェダイじゃね?」
「それで言うとトシのほうが闇落ちしそうだね」
「フォースと共にあれってね」

 トシは笑って、僕は笑わなかった。

酩酊

 京都の旅も三七、二十一日も続けば出来損ないの夜を迎えることだってある。
 昼間から安い発泡酒を片手に歩き、適当な店に入ってはハイボールで乾杯し、調子づいて日本酒もちょろちょろと味わい、宿に帰れば発泡酒がまた待っていて、いよいよ夜も更けたころになって、紫のボトルを手にした悪魔がやってきた。
 犬も食えない情けない夜は、いつもそんなふうに訪れる。
 引き際を見失ったのか、それとも興が乗っているのか、トシは柄にもなく酒を飲み干していった。
 やめときなよ、なんて止めることもない。
 僕も気づけばべろんべろんになってしまい、世界の片隅でいつもとは違う、なにやらよくわからないことをしている。こんな夜の話はたいてい次の日になると忘れてしまうので、たいして覚えていない。
「太宰治を好きなあいつは絶対にバッドボーイだ」というとてつもない偏見は耳に残っているが、そのほかのことはすべて忘れた。のちに勇気について問われることもこのときはまだ知らない。
 夜とお酒は相性が良くて、どうしてもつまらないことを考えさせられる。
 酔いしれて、酔いしれて、酔いどれて。
 優しく生きていきたいですねと言った気がする。酔った勢いでそんなことを話すなんてもったいない。口が腐りますよ。
 夜は、なまいき。
 そして、厭わしい朝がやってくる。

「まさか」

 ハッとした。酒の抜けきらない、恢復のしていない頭で記憶をたどる。
 カーテンを開けて、心の中でも繰り返す。まさか、まさか。
 そして――目の当たりにする。

「うわあ! まあたやっちゃたか!」

 酒は、いじわる。

君死にたまふことなかれ

 スマホを床に落とした。
 京都へ来る前日に届いた新品のスマートフォン。発売したての最新型。
 トイレであった。
 朝トイレに入り、トイレットペーパーの上の台座に、そっとスマホを置いた。誰だって経験があるだろう。まるでスマホを置くために用意されたような場所だからだ。
 ただそれが少し斜めに傾いていたのだ。わかってはいたし想像もした。滑り落ちるかもしれない。
 油断したのだろう。いや、そうとしか言いようがない。想像して、想定できたからこそ、自分に失敗はないと考えてしまった。その驕りが油断を招いた。
 こういう些細な思い違いがいつだって万事を破壊してしまうんだ。
 ――ゴツン。
 鈍い音。角から落ちた音。
 マーフィーの法則よろしく、失敗する余地があるならば失敗してしまう。
 与謝野晶子先生の気持ちがわかった気がする。
 戦地に赴く弟のことを思うように、君死にたまふことなかれと、祈るように、スマホを拾い上げて表を上げる。
 見事なまでに、角から蜘蛛の巣のようなヒビが広がっていた。

「あーあ」
 
 あきれたような声が出た。
 対策をしてなかったわけじゃない。京都にきてすぐにコーティングをした。某Youtuberがコーティングスマホを楽しそうに鉄球で痛めつけている動画を思い出す。騙したあいつが笑っていて、騙された僕がこんなにも泣きたくなっている。
 ちなみにこのときもトシは大爆笑だった。
 
 おまえのスマホも割れてしまえ。

橋についているあれ

 橋や手すりの柱の上に時折ある、スライムの形をした装飾が一体何なのか、気になったことがある人はいませんか。
 僕は橋を歩くたびにあれが気になって気になって、やっとの思いで調べてみたのですが、あれは擬宝珠という代物らしいです。
 なんのためについているか?
 そこには興味がありませんでした。

たこパーティ

 二週間お世話になった宿の店長から、たこパーティをするからどうかなと招待をしてもらった。
 集まった人たちは、宿泊客と宿のスタッフで、誰もみんな楽しそうにしていた。ゲストハウスってこうでなくちゃいけないよと感じ、混ざって楽しんだ。
 僕らの泊まったホステルはスタッフ同士の仲が良く、暖かくて、思い返せば、京都にいる間、ずっとお世話になりっぱなしだった。
 
 用事もないのに何度も遊びに行ってしまってごめんなさい。
 真夜中に泊めてほしいと無理をいったのに、対応してくれてありがとう。
 二日酔いに効く野菜も、ごちそうさまでした。
 三味線をひいてるところ、みたかったな。
 ワンライフアドベンチャーのみんなも元気でね。
 
 優しくて、身内のように接してくれた宿のみんなのことが大好きでした。
 また、再びお目にかかります。

メランコリー

 ついこのあいだ、お酒を飲んで、ひどく厭世的な気持ちになったばかりなのに、僕らはまた酔っ払っている。
 下等な酒を、浴びるように飲んで、ひどくだらしのない酔い方をした。
 どぶろくのような夜だ。真っ白く濁って、何も見えない。
 ぐわんぐわんな世界を歩いていると「どじさあん」と誰かが言った。後からみた写真では、僕らはとても楽しそうに笑っていた。まるで知らない人のようだ。
 見ず知らずの人に話しかけて無視をされた。
 世界中が冷たくなったみたいで、一瞬、鴨川に飛び込んでみようかという気にもなった。
 駄目だ、駄目だ。
 失敗は反省すればいいけれど、鴨川に飛び込んでしまったらおしまいだ。
 あんまりメランコリーになってはいけない。

 今日はだめだ。
 品位がなくて。
 そして何より美学がなかった。

 禅はやべえ。

達磨

 達磨をご存じだろうか。
 赤い、あれである。何度転んでも起き上がる、あれである。

「その昔ね、達磨大師って禅の神様みたいな人がいたんだって」
「へえ、どんなふうにすごいんだ?」
「九年どこかに籠って座禅してたらしいよ」
「九年!」
「達磨って手足ないじゃん?」
「ないね」
「座禅しすぎてなくなっちゃったんだって」
「やっぱ禅はやべえ」

期待

「あのときはさ、柄にもなく、期待しちゃったんだよ。助けてくれるって」

 サイゼリヤで昼間から辛味チキンとチョリソーをつまみに、百円ワインを飲んでいるときのことだった。
 トシはそう言って悲しそうな顔をした。笑顔ではいるんだけれど、影のある、悲しい笑顔。
 
「実をいうとさ、俺、嫌いなんだよな。期待って。するのも、言葉も」
「期待……ね」

 期待の期はどうして希望の希と違う字なのだろうか。希望は願いを二重にした言葉で、期待はどちらも時間の匂いがする。実現することをあてにしていて、信じている気がする。願い事じゃなく、信頼のもとに生まれているから違うのかもしれない。

「期待をしない――か。悪いとは思わないけど、寂しいね」
「悪いとはって前置きやめないか?」
「うん?」
「なんか好きじゃない。包丁を持ちながら、怒ってないよって言ってるような感じ。ずるいと思う。矛盾とまでは言わないけど正直じゃない」
「――そうだね。たしかに卑怯かもしれないね」
「期待ってさ、勝手にして、勝手にガッカリすんじゃん。それって相手からしたら知ったことじゃないよって困るし、なんていうか優しくないって思うんだよ」

 期待は優しくない。
 トシが、とても近く感じた。僕が人と関わるのが怖くって逃げてきたのと同じだ。期待するのがきっと怖い。
 ネガティブを恐れて、一歩踏み出せない。
 そっか。トシも同じなんだ。

「それでも僕は――トシに期待してほしいな」

鴨川

 毎朝のランニングコース。
 偶然かかった虹が綺麗で、見惚れておでんの卵を落とし、不機嫌そうなトシ。
 京都の町を北から南に分断するこの川のおかげで、僕らは迷子にならずにすんだ。
 京都にいる間、ずっと、一緒だったように思う。
 四条大橋からの景色を見ない日はなかった。
 
 朝も、昼も、夕方も、夜も。
 何度も何度も歩いたこの川辺で、思い出すのはあの子のことだ。
 べたに、鴨川で、等間隔。
 星が瞬く静かな夜。
 帰り道はいつも、一人で歩いた。
 川を挟んで向こうに見える南座が、周囲の暗さと相まって、一層明るく見えた。
 鴨川を見るとあの子を思い出す。
 
 さよならだけが人生か。

骨董屋の娘さん

 アンティークというのは百年以上の歴史があるものを言うらしい。そう教えてくれたのは骨董屋で働く娘さんだった。
 京都御所からの帰り道、たまたま見つけて立ち寄ったお店。
 そこで働く娘さんは全く知識のない僕に優しくアンティークについてのいろいろを教えてくれた。
 その昔硝子は高価で、それこそ桐箱にしまわれていたのだとか。だからみんな漆器の盃を使っていたのだとか。砧というんですが、読めますかとか。
 親切にしてくれるおかげで、骨董品の良さを余すところなく堪能できた。

「やっぱりアンティークはいいよなあ。歴史の重みを感じるというか」
「わかった風な口をきいてるけど、それ、その娘さんに惚れてるだけだぜ」
「え……?」
「これだから惚れっぽい男は困るんだよ。店員さんからちょっと優しくされただけで惚れちまうんだからさ。あげくのはてには自分は骨董品がすきなんじゃないかって勘違いまでしちまって」
 
 娘さんへの好意を、骨董品への好意と勘違いした間抜けな僕の心に、
 ――うんぬんはあとからついてくればいいんですよ。
 そう言ってくれた娘さんの言葉がしんと響いた。

恋愛論

 あえて。この話題にも触れておく。
 僕はこのあたりはてんで駄目である。呆然としている。
 未だ語れるほどに、恋愛に精通していない。
 それどころか、前述のとおりに惚れやすく、ちょろい男で、ついつい勘違いの恋をしてしまって、なんてだらしない男なんだと自分のことなのに歯がゆくなって、このデクの坊めと罵りたくなるときさえある。
 そんな僕からでも一つだけは言わせてほしい。男女の出会いが念頭に置かれた会合はだめだ。暗い性格なのに無理に明るく振舞わなければいけない衝動にかられ、いたく惨めな思いをすることになる。
 そのうえで三点と点数までつけられた時の気持ちときたら。
 色? 茶色だよ。戦争と同じ色だ。

「トシってどんな子が好きなの?」
「漠然としてるなあ。あんまりないんだよなあ。こういう子が好きとか。でも放っとけない子に、気がついたら惹かれちゃってること多いかも」
「ふうん。じゃあトシを落とすにはメンヘラになればいいってこと?」
「絶対やめて。わかるでしょ。そうではないじゃん」

 放っとけないというのも、また掴みどころのない、曖昧な答えだ。
 弱々しい。違う。不甲斐ない。ほど遠い。幽か。おや? 儚い。この感じ、少し近い。
 しかし恋愛なんてものは特に「謂ひ應せて何か有る」というやつかもしれない。鳴く蝉よりも、泣かぬ蛍が身を焦がす。
 気長に惚れていこうと思う。

別々

 二人で旅をしていると聞けば、当然ずっと一緒に行動していると思わせてしまうが、僕らの場合そんなことは全くない。
 部分的に一致するところはあるけれど、基本的には趣味も、好みも別々だ。毛色の異なる二人なのだ。
 例えば僕もあいつも京都で映画を見にいったのだけれど、全く別の日にそれぞれ違う映画を見た。
 足並みをそろえない。
 こんな事例は枚挙にいとまがなかった。
 僕がスマホの修理に行こうかなと言えば「じゃあ俺はここで降りるわ」とトシは一人でバスを降りてどこかに行ってしまうことすらあった。じゃあって。北野白梅町で降りてどこに行くんだよ。
 自由な奴だと思ったりもするが、僕のほうも星新一を本屋で買ってきて読み耽って時間をつぶしたりと、慣れたものである。
 トシの名誉のために話しておくと、僕が自由に出かけてしまうことだってあるのでお互い様だったりする。
 朝ごはんを一緒に食べたのも数える程度。
 圧倒的に、別々で、それでもなお一緒なのだ。不思議だと思う。
 たぶんこの居心地の良さは、かけがえのないものだ。

扉を開けておく

 或る日の夜。
 僕とトシはひどく酔っ払い、酔っ払ってるのは毎日のことで別段取り上げる必要はないが、とにかく議論のようなことをしていた。
 傍から見たら討論で、喧嘩にみえるかもしれないような、意見のぶつけ合い。でも僕らはそれでいい。
 ライ麦畑で捕まえての主人公ホールデンについての話をしていたとき。僕はどうしてもいつも頭にまとわりつく、ひとつの考えを話してみる気になった。

「もしも自分がひとつの物語の登場人物だったとして、その役どころが悪役かもしれないと考えたことはない? ライ麦畑でいうところのストラドレイターとしての立ち位置」
「それは……どうだろうな」
「僕は自分って存在は複数存在すると思うんだ。実態としての僕と、僕の中で自己認識している僕は別物だし、トシのなかに存在する僕だって全く違う」

 僕の中での僕は、自分の物語の主人公であるわけだけれど――トシのなかでの僕は旅を供にする友人で、別の誰かの中では殺したいほど憎い存在なんじゃないかって。そんなことを考えてひどく怯えることがあるんだ。

「あんまり考えたことないな」
「他人の中にいる自分。もしもそれが悪人だったらと思うと、本当に怖くて、逃げ出したくなる」
「気にしすぎだよ。そんなの難しいし、悪人だと思われることもあるよ。ただ、そんなとき、俺は扉を開けておくから、ちゃんと話に来てくれた人と分かり合えたらそれでいい」

 扉をあけておく。
 トシは簡単に言うけれど、どうしても怯えてしまう。心の壁を展開してしまう。
 それに、口ではそういっても、ちゃんとトシが迎えに行くことも知っている。扉を開けてるだけじゃなくって、ちゃんと迎えに行く。
 そうやって人と分かり合ってきたトシを見てるから、僕も頑張ろうって思えた。
 勇気を出して――たくさんの人たちと出会って、触れていこう。

パステルカラー

「言葉が強い」

 数十分後、僕は叱られていた。

「つまり? つまり? って聞かれたら問い詰められてるみたいでしんどくなるって。芥川かよおまえは」
「え、太宰のほうが好きだけど」
「そこじゃない!」

 それに、とトシは続ける。

「話してる正義が強すぎるんだろうなあ。ほかの正解を寄せ付けないような。ホールデンを目指さなければいけないってきっぱりしてて、ビビッドカラーなんだよ」
「そんなつもりはないんだけど……」
「それでもやっぱ感じちゃうって。責められてるなって」

 自分の正義を主張しているつもりはないし、ましてや他人の意見を否定しているつもりなんてないんだけれど、それでも話し方ひとつで、相手に強く否定の気持ちをいただかせてしまうことがあるらしい。
 ビビッドカラー。
 想像力なんだと思った。僕には、相手の心を、想像する力が足りない。
 だから、淡くできない。

「パステルカラーになれるかな」
「そうなったほうがいいとは言ってないけどね。お前の言葉って、忘れたころに思い出して、ちゃんと理解できるから。あとから入ってくるみたいだわ、俺の耳」
「でも、もっと淡く、伝えられるようになりたい。たぶんきっと、優しさなんだと思うから」

 トシは笑いながら「いいと思うけどね」と言っていた。
 淡く、優しかった。

哲学の道

「我儘をいってもいいかな。ここから先は、一人で歩きたいんだ」
「いいよ、そうしよう。じゃあちょっとしてから、あとからいくよ」

 どうしても真夜中の、真っ暗な哲学の道を、僕は一人で歩きたかった。聞かれても答えられるような理由なんてないけれど、そうしなければならないような使命感のようなものがとにかくあった。
 街頭の明かりも少なく、右側は山になっており、ときおりガサゴソと音が聞こえる。本当に真っ暗だから、夜空がいつもよりもくっきりと見えた。
 哲学。
 三十年生きてきて、ようやく僕にも哲学というものがどういった形なのか、ぼんやりと見えてきたようなのだ。もう少し言えば、哲学を学ぶ意味が昔は全く分からなかったのだけれど、理解できるようになったのだ。
 インターネットが広がって、知識が独占されなくなり、正解がコモディティ化した世の中において、今までと違った価値が生まれてきてることを日々感じている。
 不安定で、不確実で、複雑で、曖昧な時代を生きていかなければいけない僕たちは、一体何を信じるべきなのか。それを見つめ直すことが今の時代に(もしかしたらいつの時代も)大事なんじゃないか。
 つまりは、自分のなかの美意識を磨かなければならない。
 美しく生きたいと強く思わなければいけない。

 気が付けば、銀閣寺の坂の前についていた。
 もう少しだけ先に行きたい。
 描きたいことが、こんなにもあるのだから。

一番美味しかったもの

 この旅で一番美味しかったご飯の話をしよう。

 星の高いうどん、散々食べたラーメンや親子丼、一人で食べた湯豆腐、あのパスタも美味しかったし、すき焼きも絶品だった。いつも通りの吉野家も候補に入れよう。
 考えを巡らせてみたけれど、出来レースのように、最初に頭に浮かんだ、あれが一番で間違いなさそうだ。

「やっぱり肉吸いかな」
「あれはうまかったなあ……だけど、肉吸いが一番うまいと思うのは実際のところ当たり前かもしれないぜ」
「どういうこと?」
「その秘密は肉吸いの誕生秘話にある」

 誕生秘話? スタートから胡散臭いぞ。

「まあ聞けって。肉吸いってのはその昔、吉本新喜劇の俳優がとあるうどん屋にいったときに生まれたんだ」
「うどん屋? 星は高かったの?」
「星ばっかり気にしてたら食べログおじさんって嫌われちゃうぞ……とにかくその芸人は二日酔いだった。軽めの食事をしたかったんだ。そこで芸人は無茶な注文をした」
「どんな?」
「肉うどん、うどんぬき」
「それじゃあただの……」
「ただの?」
「ただの……にくすいじゃん」
「イグザクトリー、そういうわけで、俺ら毎日飲み歩いてるんだから、肉吸いを一番うまいと思うのは当たり前なわけ。なんていったって酒飲みのために生まれた食べ物なんだからな」
「なるほどなあ」

一番食べたいもの

 一番美味しかったものの次の話は、一番食べたいものの話である。

「今一番食いたいもの、せえので言おうぜ」
「せえの」
「ひむろ」

 声が重なった。
 地元には各駅に点在してる札幌味噌ラーメンのチェーン店。
 僕らが食べたいのは美味しいラーメンではなく、いつものラーメンなんだ。

おみやげ

 旅の終わりと言えばお土産だ。
 甘さと酸っぱさの調和のとれた梅干しのうまいこと、うまいこと。
 京都駅前の抹茶のラングドシャなんかも鉄板だ。
 母さんから頼まれていたよーじやのハンドクリームも買った。

「会社にお土産は買う?」トシに聞いてみる。
「俺、あんまりお土産文化好きじゃないんだよ」
「へえ、意外」

 人が喜ぶことが大好きなトシが、お土産は好きじゃないのか。
 職場にお土産を買ったとき、こちらに置いておくのでご自由にお取りくださいとすると、対象も多く、一人ひとりに愛を込めにくいのかもしれない。
 お土産は、渡す相手を想像して、選んでいるときが一番楽しい。めいっぱいの愛情を込めるのだ。

「おしるしでいいですか?」

 あまり聞きなれない言葉に、京都を感じた。
 方言だろうか?

物語

「なあ文士」
「どうしたの写真家」
「小説を書きたいなって思ったきっかけってなに?」

 茶化すように呼ばれた文士という言葉に少し照れ笑いをしながら考える素振りをする。
 それはお寺で願い事をするときにも、今この場で星が流れたとしても、思い出すまでもなく、一瞬で言葉にできるほど、片時も忘れたことのない強い想いだ。
 ただ、口に出すのは少し、いや、とても恥ずかしくって、ついつい誤魔化してしまう。

「そうだなあ。逆に聞きたいんだけど、自分がすごく面白い物語を思いついたとして、そしたらどうするの? 小説を書く以外には表現のしようがなくない?」
「いや、普通はそこで小説を書こうとはならないんだけど……」
「僕も小さい頃はそういう欲求をガンダムのゴム人形を使ったおままごとで発散していたんだけど、この歳でさすがにそれはできないからなあ」
「背徳的な絵になるな……」
「まあ冗談だけど」
「冗談なんだ」

 一呼吸おいてから、力を込めて僕は言った。

「物語の力を――どこまでも信じてるんだ」
「信じてる?」
「素直にしてくれるんじゃないかって」

 現実はすごく見えにくい。みんな隠してしまうから。
 物語は生きていれば無数に紡がれていて、そのなかでは烈々たる想いも、涙がこみ上げるほどの悲しみもあるはずなんだけど、みんな誰かの前で涙は流さないし、熱い想いは語らない。
 自分の中に閉じ込めてしまって、吐き出し方も知らない。
 けれど物語の前では隠されたあれやこれを、赤裸々に曝け出して、少年少女のように、泣いたり、笑ったり、怒ったり、できる。
 僕がそうだったように。
 みんなもそうだろう。
 人の心は心理学や統計学で教わるものじゃなくて、物語を通して感じていくものだって、はっきりとわかる。
 
 僕にとっての一番身近な物語は文学で、
 みんなと分かり合う方法をこれしか知らないから、
 どこまでも言葉を紡いでいきたい。

 みんなと寄り添って、生きていたいんだ。

思い出

 さて、ここからは京都の旅も最終章。
 後半戦、酔っ払ってばかりいた僕らだけど、そろそろ旅も終着点。

 書き切れていない思い出もたくさんある。
 
 立命館大学の女学生。
 龍安寺の前にたたずむ普通の民家。
 おっとっとをくれた熊本からきた女の子。
 キャッチに連れられて足を運んだ汚い居酒屋。
 腕相撲をするのをみていたキャンパス。
 いつも通る木屋町のバーと、胡散臭い数字。
 ロッキンチェアーに揺られながら味わったカクテル。
 スティーブ・ジョブズの愛した苔寺や蕎麦屋。
 写経をしてきたあとの人偏の書き方。
 京都で一番と名高い和菓子。
 道のない山奥を歩いた比叡山。
 一人で散策したお茶の町。
 お化けの出る四条の宿泊所。
 東京から来てくれた友達とのいきあたりばったりな夜。
 どうしても食べたかったおでん屋。
 もらえないかと思った看脚下という教え。
 ココイチの前で嬉しそうに写真を撮るトシ。
 一番を狙いに行ったしゃぶしゃぶ。
 どうですか調子は? ぼちぼちでんなあ。とまるで型通りの挨拶をする老婆二人。
 そろばんをたたく帳場の番頭。
 禅の心で飲んだ京の水。
 雲竜図と足の細い女の子と五右衛門風呂。
 落ち葉を踏んだ時のぱりっとした音が響く糺の森。
 ぴいちくぱあちく鳥のさえずりと。僕と同じ目をしたカラスの鳴き声。
 砂利の踏まれる音と。
 水のせせらぎと。
 楽しそうな談笑の声と。
 赤と緑と黄と青と茶と砂利と土と落ち葉と水と川と木と寺と橋と。
 
 わかると思うんだ。
 はじめは灰色に見えたこの町が、今はこんなにも色鮮やかに見えること。

二人の関係

「京都へは、旅行でいらっしゃったんですか?」

 人の好さそうな喫茶店のお姉さんが、商売用とは思えない笑顔で聞いてきた。
 旅の中では何度も聞かれたこの問いには、いつも「遊びに来ている」とだけ答えていた。
 けれど、このとき、なぜか僕は返事に困った。

「どうでしょう……何しに、来たんですかね」

 京都を離れるノスタルジーな想いが、そう言わせたのかもしれない。僕は自分で言って、誤魔化すように笑って、下を向いた。

「わからないんですか?」

 カウンターの向こうから淹れたてのコーヒーを差し出しながら、小首をかしげて尋ねてくる。

「紅葉を見に来たつもりだったんです」
「綺麗ですもんね。いつまでいらっしゃる予定なんです?」
「ひとつき前から、今日まで」
「ひとつき!」

 お手本のように驚いて見せた彼女は、続けて「おひとりで?」と興味を持ったようだった。

「いえ、二人で」
「まあ、仲がよろしいんですね」

 続けてお姉さんが何かを言いかけたところで、別のお客さんからオーダーが入り、バタバタとそちらへ駆けていった。どこか可愛らしい店員さんだった。
 コーヒーを口にして、頭ではさっきの質問を考えていた。
 それは京都の旅を振り返り、トシと過ごした時間を、ひとつずつ追っていくことだった。
 ここまで書いてきたあれこれ。
 順に辿って、記憶の一番新しいところまでやってきた。
 最後の夜、京都とは何も関係ない話をした。
 音楽から道徳を学んだのだとか、汚れちまった悲しみがどうのとか、毒にも薬にもならない、よもやま話を。
 一通りのことを思い出したところで、いつの間にやら戻ってきていたお姉さんが「恋人ですか?」と聞いてきた。
「いえ……」と言って僕はあいつのことを思いながら、いくつかの浮かんだ言葉を頭の中で繰り返してみる。
 その中で、一番しっくりきた言葉を、間違えないようにそっと唇に乗せる。

「友達と、一緒に来たんです」

 二人の関係なんて、なにもわざわざ姿勢を正して、確かめるようなことじゃなかった。
 信友でも、親友でも、それらしい言い方はいくらでもあるけれど、飾らずに友達と言いたかった。
 僕も、トシも、きっとみんなともそうなれるはずだから、特別な言葉なんていらなかった。

「じゃあ、京都へは友達と過ごすために、来たんですね」

 彼女は嬉しそうに無邪気に微笑んだ。彼女もまた、信実の友達の大切さを知っているような、そんな笑顔だった。
 そう、僕らは友達との間にあるはずの信実を確かめるため、それだけのために、京都へ来たんだろう。
 そして、二人の間には、たしかに、嘘もズルも誤魔化しもなかった。
 信実だけで動くこの心臓を見せることができれば、みんなにもきっとわかってもらえる。
 そこには、ただ、信頼だけがあったということを。
 そう感じて。
 涙が出そうになるほど、優しく生きたいと思った。
 涙が出そうになるほど、みんなを愛したいと思った。
 
「仲が良いんですね」と、もう一度言われ、僕は答えた。
  誇らしげに――心の底から。

「ええ――うんざりするほどに」

 遥か遠く誰もいないところで
 宛てもなく歩いていた 
 ひとりきりで彷徨い続けた 

 あの時とは違う二人の旅はとても心地よくて
 暖かくて一緒に来れたことに感謝した
 
 一人がずっと楽だと思ってた
 誰かといると傷つく時が必ず来ると思ってた
 
 時間をわかちあわなくっても
 友達でいられる感覚もあった
 
 だけど旅をしたから
 話せたこともたくさんあって
 旅をしたから 
 好きになれたこともたくさんあって

 旅をしたから
 同じ思いを確かめ合えて
 こんなにも信じていいんだなと思えた

 北風に吹かれて裸になった木々と
 散らばった落ち葉を見た
 季節が終わる前に帰ろう
 
 そしてまたいずれ、旅に出よう

グッドバイ

 京都という町で、秋に揺られて過ごした一ヵ月。
 佰物語なんて銘打って拙い文章で綴ってみたけれど、書けば書くほどに最初から底の割れた茶番劇だった。
 加えて半分程度のお題しか書かずに終わりを迎えてしまった。タイトルを京都紀行、いやいっそただの酔いどれの手記としたほうがいいのではないかとも考えたが、そこまで含めて僕らしいなと、そのままにすることにした。
 ただ――なにも起きなかったこの旅も、やっぱり必要だったんだと思う。
 
 僕はそう感じて、
 トシはそう言葉にした。
 
 さて、あんまり長居をしてしまうと、かえってよくない。
 過ぎたるはというやつで、ここからさきは、きっと薄くなる。
 僕らはちゃんと、僕らの町に帰らないといけない。
 日常と非日常。ハレとケの黄金比。
 
 僕にとって京都の町は――刹那的な想いを詰め込んだ町になった。
 安っぽい感情移入なんていらないくらい。
 楽しさも。
 寂しさも。
 切なさも。
 愛しさも。
 ぜんぶ、ぜんぶ詰め込んで、過ごした。
 一人ぼっちじゃ足りなかった。
 帰るのは寂しいから、思い出は全部、預けておこう。
 また来る約束も、交わす言葉も、決めたりはしない。
 それでもきっとやってくる。桜の咲く頃に。そのときには、またみんなと一緒に記憶を辿れると思うんだ。
 このだらしない一ヵ月のことを。
 さながら昨日のことのように。
 さながら夢物語のように。
 
 よし、大丈夫。
 京都で出会ってくれた愛すべき人達も。
 なかなか色づいてくれなかった紅葉も。
 お酒と一緒に過ごした河原町も。
 
 それじゃあ――僕らはもういくよ。

 
 グッドバイ。

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