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ピンチベスト10 ―20/1000―

僕は自己啓発本を読むのが好きで日々、youtubeや書店で面白そうな本を見つけてはしたり顔して自分の本棚に入れています。今日はその中から書店で見て衝動買いした「20代を無難に生きるな」という本からこれまでの人生で起こったピンチベスト10を作る。というものがあったので簡単な自己紹介を兼ねてやってみたいと思います。


高校ラグビー部

それまでたまに外に遊びに行くことがあっても自由時間のほとんどを小学生では家庭用ゲーム、中学生ではパソコンのゲームに費やしていた僕は根っからの文化系でした。結果、健康診断のカードにはいつも※太りすぎ※と書かれていました。そんな僕が高校で青春を感じたいと思って始めたがラグビーでした。顧問からは怒鳴られる毎日、怖い先輩、全員が自分よりも経験のある後輩たち、運動神経のいい同級生。毎日ついていくだけでも必死でした。もし高校での思い出はなんですか?と質問されたら即答で「部活です。」と答えることができます。30に近くなった今でも夢にでできます。

骨折

ラグビーには怪我がつきもので、当時約30名ほどの部員がいましたが、常に2~3人は骨折、脱臼、捻挫または靭帯や半月板の損傷などの怪我をしている状態でした。私はラグビーの試合中にタックルしたところ、100kg近くの相手が自分の上に重なって脛骨骨折(足にある2本の骨の内の太い骨の骨折)をしました。この骨が折れると歩けないらしく、一刻も早く治すために足に膝から足首ほどある直径1cm弱のチタンをいれて骨を固定する手術をしましたが1ヶ月ほどの入院と2ヶ月ほどの松葉づえでの生活を余儀なくされました。

浪人

高校では頭の中の99%が常に部活のことでした。勉強のことなど全く頭の中にはなく、普通の人なら嫌がるテスト習慣も私にとっては部活がなくなる期間であったのでほっとしていました。当然、そんな考えをしていたので成績がいいはずもなく、中学のときにできていた成績はみるみる下がっていきました。定期的に行われる学力テストや模試の結果は燦燦たるものでしたが、そんなものに興味すらなく部活をやっているのだから仕方ないと思っていました。そして、部活が終わった高3の10月。これからいよいよ本気で受験勉強をしようと思って受けた11月の模試。5ー7科目偏差値32。当時はそれがどの程度のものかも知りませんでしたが、受験に関しては全くの不完全燃焼であったので浪人にすることに決めました。浪人中で自分は教科書に書かれているような基礎の基礎の公式すら頭に入っていなかったことが判明し、あまりの自分のできなさに驚愕しました。

終わらない製図

大学では建築を専攻していました。授業には設計製図という授業があり、それは設計図の図面や模型を作ってボードにまとめ、発表するというものでした。設計というものは拘ればいくらでも拘れることがでいるため、作業の途中ではまるで出口のない迷路を永久に彷徨っているかのように感じます。設計課題の1週間前にもなると途端に焦り出し、徹夜で作業をしなければならないときも頻繁にありました。周りでも1徹したとか2徹したとかという言葉が飛び交っていました。

ついていけない授業

大学には合格したものの第一希望の大学ではなかったため、心のなかにまだ受験に対する火種が残っていました。それを業火に変えたのが大学編入試験という大学を編入学できる制度を知ってしまったことでした。私が希望していた大学は3年次編入という制度を取り入れていて、高専を卒業した人や大学2年の人がその大学の3年から編入学できるというものでした。試験は大学2年の6月。1年の9月頃からコツコツと準備していたので合格はしましたが、待っていたのは大変な毎日でした。毎日の授業のレベルは格段に上がり、レポートの数も求められる質も以前のそれとはまるで違っていました。さらに私は前の大学での単位変換で認められなかった授業を下の学年と一緒に授業を受けて単位を取らねばなりませんでした。

大学院試験

大学在学中、もっと学問をしたいと思っていた私は大学院に進むことに決めました。編入する前から、何のこだわりかは今となっては説明できませんが編入した大学とは別のさらにレベル高い大学院に行きたいと考えていました。さらに大学4年のときには教授が厳しい研究室に配属になったため、研究、設計製図、講義、就活、インターンなど考えなければならないことが山ほどあり、自分のキャパを超えていました。

場違いな大学院生活

大学院試験を奇跡的に合格した私の次に待っていたのは、さらにレベルの高い環境でした。これまでは地方の大学で過ごしてきましたが、大学院では都会生活が始まりました。そこではこれまで経験してきたことがちっぽけに見えてくるほど、目まぐるしく動く毎日でした。これまでの考え方が一気にかわり、これまで作り上げられてきた頭の良い人のイメージを覆りました。世の中にはここまで頭の回転が速く、論理的に考え、様々なことを考えられる人がいるのかと思いました。同じ研究室の同期はそれぞれ強い個性があって理系であるのにネイティブ並みの英語力を持つもの、相手の意見を吸い上げてまとめるファシリテータ―としての能力が優れているもの、設計製図のアイデアが抜群に斬新で画期的であるもの、教育学部出身でコミュニケーションに長けているもの。その1人1人の個性が際立っていてそれぞれのことを心から尊敬していました。その研究室で日本人の外部生は自分1人で周りに友達もいなかったため常に強がっていましたが、心の中では少しでもみんなに追いつきたい!なんとか自分の強みを見つけたい!そう思って過ごしていました。

会話のできない毎日

これまで自分で必死で積み上げてきたキャリアを無にしました。大学院を1年で中退しました。その理由の一つが、批判的で論理的な思考が確立している彼らに対して当時の僕は田舎特有の同調主義者で相手の意見に頷いてばかりでした。私にとって相手と対立するような意見も述べなければならない環境は性に合っていませんでした。しかし、いつかは彼らのようにしっかりと相手の意見も汲み取りつつさらによりよりアイデアを出していくような彼らに憧れ、彼らのような思考法を身に付けたいと思っていました。そこで始めたのが論理を重要視する英語であり、オーストラリア留学でした。留学では思っているように英語がうまく口から出てきて来ず、失敗の連続でした。電車に乗り間違えたり、アパート探しやバイト探し、友達との会話でさえもtrial and errorの毎日でした。

地元で塾講師

大学院をやめなければならなくなった、また別の理由が圧倒的な基礎学力の無さにありました。しかし地元ではそこそこ学のある部類に入れるだろうという気持ちと、地元の学力を少しでも向上させたいという動機、ひいては自分の学力も上げて、今度はしっかりと自信をもって次にステップにつなげたいという想いがあり、地元で塾講師をすることにしました。これまで小・中の指導経験はあったものの高校生の指導は初めてであったため去年は授業が組まれると必死で予習する毎日でした。これからもこの生活がもう少し続きそうです。

投稿1000日チャレンジ

投稿1000日チャレンジという途方もない目標を立ててしまいました。毎回書く記事もテーマもいまのところ決まっていません。ただ1つ1つ丁寧に書き記して、何か少しでも面白くて、役に立つような情報を記事にできたらと思っています。

ー番外編ー 丸に切れない

僕が覚えている一番古いピンチです。幼稚園のころ工作が苦手であった私はいつも何かを作るのに時間がかかっていました。その時は折り紙でお花を作っていて他の人たちはみんな完成していて自分だけがまだ作業をしている状況でした。その工程の最後にこれまで折った折り紙にハサミで丸く切るというのがありました。そうして折った折り紙を開くときれいな花が出来上がるというものでしたが、それができず1人半泣きになりながら作業をしていました


実践からの学び

これまで数々もピンチを書いてきましたが、自分の大きなピンチをまとめてみると自分のやってきた略歴とともに自分がやってきた努力が見えてくることが分かりました。ピンチの裏側にはそれを乗り越えようとする努力が生まれる。それがこの実戦での学びでした。


「何らかの形で『あ、俺、終わった』とあきらめそうになったときが、じつは終わりなのではなく、はじまりなのだ」

―『20代を無難に生きるな』より



今日はここまで。
最後までお読みいただいてありがとうございます!
また明日!


今日の一言:
今後、自己啓発本の実践体験記とかおもしろそう。


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