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ぼくが毎朝、神棚にお参りをする理由

典型的な意識高い系であった(いまでもそうかもしれないが)僕は、大学生のころに様々なセミナーや著名な本を読んできました。そこで世の中で成功するひとたちはよくお祈りをすることを耳にしていましたが、ずっと実践することなく過ごしてきました。しかし最近になってその重要性にようやく気づき始めたのでその経緯についてお話ししたいと思います。

子どものころ僕はすぐ調子に乗るタイプの人間だったようです。なぜならよく「調子にのるな!」と周りから怒られてたからです。当時の僕はなぜ、ただ楽しくしているだけなのに怒られてしまうのか意味が分かりませんでした。

成長し大人に近づいていくと、周りから怒られることは少なくなっていきました。それは恐らくぼくが調子に乗っていなかったからというわけではなく、心配して注意してくれる人が少なくなっていったからのように思います。

転機が訪れたのは大学に合格したあとからでした。さらにレベルの高い大学で高等教育を受けたいと思ったぼくは大学編入学試験を受けました。当時のチューターの教授からはこう言われました「そんな人は初めてです。しかも合格までするなんて。」と。そのあと次の大学での生活や今後の生活に関しての忠告をしてくれましたが、合格に浮かれていた僕はそんなことは気にもとめていませんでした。その後の編入学式までの半年間は講義もサークルもバイトもただ普段通りにこなしているだけで、次の大学への準備をすることは偏入学直前までありませんでした。

苦労することになったのは偏入学してからのことでした。
前の大学で履修していない科目は単位の変換ができないため、1年生や2年生に交じって講義を受けなければなりませんでした。それに加え、講義の以前の大学のそれとは違って難解で、とても片手間で単位取得できるものではありませんでした。しかし、どうしても取りたいという科目がいくつもあった私は余分な講義も履修することになり内部進級者からみても非常に忙しい日々を送ることになってしまいました。

そこから事態は悪い方向へと転がっていきました。
講義やレポートが多すぎて多忙となり、日々の様々なことがおろそかになっていました。勉強の他にサークルやボランティアの参加、インターンなども経験したかったため、自由な時間をしっかりと確保することが必要でした。そのため講義レポートの質が下がっていたり、十分にテストの準備ができなかったりと良くない方向に向かい始めていました。しかし当時の自分は自分がどういう状況に置かれているのか理解できていませんでした。

あっという間に1年が過ぎ、理系であったので研究室配属が始まりました。希望する研究分野はある程度編入学をする以前からほとんど決めていましたが、具体的にどんな研究をしたいのか?どの研究室に入るのか?ということは決めていませんでした。多忙な中でもある程度GPAは取れていたので希望していた分野の研究室には入れましたが、入ってからが大変でした。

編入学までしてきてわざわざこの研究室に入ったのもあって、やる気に燃えていました。これまで順調に単位も大学生活もある程度順調にこなしてきた僕は、完全に「調子に乗って」いました。しかし研究室での研究はなかなか一筋縄にはいきませんでした。編入試験後の準備や大学での講義を疎かにしていた私は、レポートの情報収集やまとめ方、分析の仕方などのスキルを十分に会得できておらず、やる気は十分にあるにもかかわらず「なぜこうもうまくいかないんだ」と苛立っていました。

これまでは自分一人の力でなんとかなってきたものが自分一人ではなにも進めることができなくなることを始めて実感しました。しかしそこでも「調子にのっていた」僕は素直にまわりに助けを借りることができず一人でもがく日々が始まりました。編入学試験を合格してきたという驕りや前の大学とのノリの違いになかなか馴染むことができず、「やる気はあっても何もできない」そんなモヤモヤした感情が渦巻いていました。見るに見かねた教授がようやく課してくれた作業は100程ある資料の仕分けと分析でした。そこでも「調子にのっていた」僕は、もっと別の派手で目立つことをやりたい。と思ってたので、その作業を十分な熱を持ってこなすことができず分析を疎かにしてしまっていました。

その結果、教授や研究室の先輩からもよく思われないようになってしまい、手助けを受けることができなくなっていました。しかし今思い返してみると周りの人たちは何度も救いの手を伸ばしてきてくれていたということがわかりますが、それを救いととらえられていなかった僕は非常に愚かであったように思います。最終的に困り果てたぼくは仕方なく不完全燃焼な気持ちで論文を仕上げざる負えない状況に追い込まれてしまいました。それも今となってはすべて「身から出た錆」に違いないと考えることができるようになってきました。自分のなかでは正当な理屈が構築されているかに思えていましたが、周りから見たらただの「わがままなやつ」であったように思います。

このように自分では正しいと思って行動しているつもりでも周りから見るとそうでもないことがたくさんあります。どちらが本当に正しいのかは心から話し合って解消するしかないですが、日常の生活ですべてのことに対してそのようなことは時間的にも労力的にも現実的ではありません。だから少しでも自分が本当の意味で正しいことができる状態にしておかなければなりません。それはおおよそ、自己中心的に物事を考えるのではなく相手に対して気遣いのできる行動ができるかどうかであるとは考えています。

最近、youtubeでみた名言の中にこんなものがありました。
「自分にしかできないドデカすぎる失敗をしろ」サッカーの本田圭佑の言葉です。挑戦なしに失敗することはないし、挑戦することなしに成功もないだから失敗を恐れずに前に進めというメッセージであると自分なりには解釈しています。自分に置き換えると目標に向けて努力することは大切であるが、その目標をしたとしても一度努力を怠ってしまうと一気に下り坂から転がり落ちてしまうということを学びました。大学編入という目標を達成した後に浮かれてしまって努力を積み重ねなかった。その報いが不完全な論文となって現れたのだと思います。

その反省をもとにして考えたのが、毎日神棚にお参りするということでした。毎日自分以外の存在にしっかりと頭を下げることで、自分の驕りや傲慢から解放され、謙虚に生きられるのではないかと思っています。その対象が絶対的な存在であるなら効果はさらに期待できるのではないかと思います。ただの気休めだと言われればそれまでですが、日々自分の未熟さに目を向けて改善しようとする意識こそが重要な意味を持つのではないかと考えています。これを続けておよそ半年となりますが、自分が調子に乗ることなく正しく成長し、周りにほんのわずかでも良い影響を与えられる人になっていることを願ってやみません。

それでは、また明日。


今日の一言:
本当に意味があるのかと思ったら負け。

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