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ゴムの木

 僕が仕事から帰ると、妻がゴムの木になっていた。ゴムの木になったと言っても、正確には妻とゴムの木が入れ替わったと言ったほうが正しいかと思う。こんな曖昧な表現をするのは、先に帰宅しているはずの妻が家におらず、代わりに家になかったはずのゴムの木がダイニングの、妻がいつも座っている椅子の上に置かれていたからである。仕事帰りにゴムの木を買って、椅子の上に置き、また何処かへ出掛けたのだろう。椅子の上に買ったものが乗っているのは妻の習慣のひとつだ。妻は買い物をして帰ってくるとよく椅子の上に買い物袋を置いている。だからいつも通りだと思っていたのに、妻は帰ってこなかった。
 僕は、妻の両親や姉や友人たちに連絡したけれど、居場所を知る人は誰もいなかった。妻が行きそうな場所はすべて探した。でも、妻は見つからなかった。僕は妻を知っているようで、何も知らなかったのだろう。妻がどうして去ってしまったのか僕には全く見当がつかなかった。しかしひとつ分かったことは、妻は僕と一緒に生きていくことはできなかったということで、僕が妻と一緒に生きていくことができなかったということだ。

 僕が捜索願を取り下げてから、二十余年になる。未だに妻は見つからない。近頃、妻は本当にゴムの木になってしまったのではないかと思うようになった。その方がまだ心が落ち着く気がした。
 妻が消えた日が今年もやってきた。ゴムの木を妻の椅子の上に置いてみる。引っ越す際にダイニングテーブルは捨ててしまったが、妻の椅子だけは持ってきていた。
 僕は、椅子の上のゴムの木を見て、ふとこの木について何も知らないことに気がついた。スマホで調べてみると、妻が置いていったこのゴムの木は、東南アジア原産の木で、フィカス・バーガンディという名前らしい。インターネットによると、この木は花を咲かせることがあるようだ。花言葉は「永久の幸せ」とある。当てつけだろうか。少し笑ってしまった。これが妻の最後のいたずらかと思うと泣いてしまいそうだったが、僕は笑うことにした。
 祈りとは、妻が置いていったこのゴムの木のことなのだと、知った。
 妻は、帰ってくる。そのときには、僕が育てたこのゴムの木を見せよう。

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